第1回東京ヌースレクチャー2013 vol.1 「創造空間の時代へ」

2コマ目後半 精神的個と社会的個

─── 目次 ───

  1. 精神的個と社会的個
  2. 最終構成とハーベスト・プログラム

1. 精神的個と社会的個

さぁ、そして、2013年を迎えた現在、その当の日本、当の日本人は、今こういう状況にある、わけ、だよね。昨日、僕は、夕方から夜にかけて渋谷の街を歩きました。昨夜のハチ公前は、山本太郎が来て選挙演説をやっていたんで、いつにもまして人ごみがすごかった。もう、ぎゅうぎゅうでした。僕も原発なんか即ヤメロと思っている人間なので、個人的には山本太郎のシンパです。東京の若者たちも、きっと、みんな山本太郎の支持者なんだろうと思ってました。ハチ公前ではレゲエファッションの若者たちがボランティアで交通整理をやっていて、黒山の人だかりだったんだけど、意外だったのは、全く無関心な若者たちの方がそれをはるかに上回っていたことですね。あれだけの事故がもう忘れ去られている。で、その中には「うぜえな」とか、「迷惑なんだよなぁ」「バカじゃないの」とか言って、集会を罵倒して通り過ぎていく若者たちもたくさんいました。これには、ちょっとびっくりしましたね。彼らは原発事故に何の問題意識も持っていないどころか、問題意識を持っている人たちに対してあからさまに敵意のようなものを向けている。ほんと、昨日の渋谷の街は二重空間でしたよ。方向性の全く違う二つの意識の流れが正面からぶつかり合っているのだけど、すでに全く交差しなくなっている。こうした、もはや交差を起こしようのない二重空間というのが、リアルな世界でもいろいろな場所に出現してきているような気がします。

さきほど、OCOT情報が「2013年になる直前にある大きな出来事が起こる」と言っていたという話をしましたが、同時に、そのとき、面白いことを言っていたんですよね、なんて言っていたと思います?「日本からサムライが現れる」と言ったんです。びっくりでしょ。冥王星の知性体の口から「サムライ」ですよ。倒れちゃいますよね(笑)。それで、気になってサムライの語源を調べてみたんですね。すると、サムライという言葉は元々「さぶらう→さむらう」から来ていて、「さぶらう」というのは日本の古語で「守る」という意味があることが分かったんです。つまり、サムライとは本来は「守り人」の意味なんですね。それで合点が行きました。つまり、精神の永遠性というか、金として送り込まれてきた原初の精神の霊的な脈動を常に守る力というのが、日本語の精神の中に、今もなお存在しているんだと思います。そして、その精神に目覚める者たちが日本から現れてくる。そして、彼らの精神の力が鉄の力で覆われたこの文明を大きく変革していく原動力になっていく、ということなのだと思います。でも、この新世紀のサムライたちは今までのシステムに攻撃を仕掛けるとか、新しい政治革命のための一大勢力となるというわけでは決してありません。金の力は鉄の力よりもはるかに次元が高いものですから、鉄の力を無限の包容力で包み込むんです。つまり、このユダヤ一神教的な霊力の流れによって支えられている唯物論的な思考に呑み込まれた、現代のわたしたちの価値観や世界観、人生観、そのすべてを何一つ否定することなく、それらと両立するようなかたちで、また、それらを補完するようなかたちで、霊的な価値観というものを立ち上げていくんだろうと思います。そういう作業を行う者たちが日本から現れてくる。これは、まさにベンヤミンのいう「新しい天使」ですよね。というのも、僕は、彼らが出現してきた暁には真っ先に時間を止めるのではないかと思っているからなんですが。時間を止めるからと言って、時間よ、止まれ!! と言って、SFみたいに動きがフリーズするわけじゃないですよ(笑)。

今、わたしたちは、時間を過去から未来へと向かって直線的に流れていくもののように感じていますよね。でも、この流れの底には時計に支配されていない根源的時間というものが眠っているんですね。「新しい天使」は、その根源的時間に対する感覚を甦らせて、その場所で、世界について思考するようになるのではないかと考えています。根源的時間が覚醒すると、時計の針とともに動いていた今までの時間は、次第に影を潜めていきます。さっきのクレーの「芸術は見えないものを見えるようにする」という言葉を借りて言うなら、見えないものが見えるようになってくると、今度は逆に、今まで見えていたものが見えないようになってくる。これと同じで、本当の時間感覚というものが生まれてくることによって、今度は、従来の時間感覚が意識から遠のいていく。このときのこの時間感覚そのものが「霊」なんです。さっき言いましたよね。時間とは精神の死骸である、って。その死骸から意識が離れれば、根源的時間としてのほんとうの精神が目覚めてくるということなんです。それが霊です。霊と言っても、TVでやっているような怨霊とか幽霊の霊ではありませんよ(笑)。哲学的にいうなら純粋持続の力です。精神の実体です。別の言い方をすれば、精神的な個の本質と言ってもいいでしょう。

人間は社会的個と精神的個の両面で生きていますよね。社会的個というのは文字通り、社会の中で生きている「わたし」という存在のことですよ。名前を持ち、国籍を持ち、性別を持ち、肩書きを持ち、共同体の中で他人とともに生きる「わたし」、のことと言っていい。一方の精神的な個というのは、純粋な内在性としての個、単独者としての個のことです。この個は名前を持ちません。もちろん、男女の性別もありません。肌の色や国籍も関係ない。いや、より正確にいうなら、この個は「わたし」という人称さえ持っていないと思います。分かりやすく言えば、「こころ」のことです。人間の生の営みは、必ず、この社会的な個と精神的な個の間の葛藤として営まれています。震災後に、放射能の問題を抱え込んでしまった今の日本人は、意識的にせよ、無意識的にせよ、この葛藤状態がピークにまで達してきているように思えます。

社会的な個から見れば、日常の生活は経済活動の上に成り立っているわけですから、日本が経済力を維持していくためには、多少のリスクは抱えても、放射能の汚染には目をつぶるしかない、と考えるでしょう。しかし、小さな子供を持つお母さんや、ダイレクトに被害を被っている人たちにとっては、今の政府の汚染隠しは国民の生命を無視した、国家体制優先の暴挙にしか見えません。マスコミも何一つ本当のことは言わないし、ネットでは、その反動からか、逆に恐怖をいたずらに煽るようなデマが氾濫する。もう何がほんとうで何がウソか分からない。そうやって、疑心暗鬼のなかで、未来が不安と恐怖に覆われていくわけです。こういう状況では、自分の心の中に不安を見たくない人は、必ずと言っていいほど、心理的な防衛に走ります。すべてのことはなかったかのように振る舞う。たぶん、皆さんも、身近な人ともうあまり放射能の話をしなくなっているでしょ。意見がぶつかりあったり、気まずくなったりするもんだから、無意識のうちにそうした話題を避けてしまう。それも、ある意味、同調圧力の産物ですよね。そして、ただ24時間テレビ的な「絆」などといった欺瞞めいた言葉がリフレインされる。もう、病気です。フクシマの事故が日本人の心に与えた傷はすごく深いと思います。神さまから見ると、精神はたぶん瀕死の重傷を負ってますよ。その傷が意識化されているにせよ、されていないにせよ、関係ありません。2013年という年を迎えて、今や、社会的個と精神的個の間で続けられてきた綱引きの綱はボロボロになって、ほとんど限界にまできている。おそらく、もうすぐ切れますよ、いや、すでに切れていると言ってもいいかもしれない。

2. 最終構成とハーベスト・プログラム

こうした社会的個と精神的個の間の綱引きの終了が意味するものが、OCOTのいう「人間の最終構成」だと思って下さい。最終構成というのは、OCOT情報に拠れば、人間の意識の覚醒の契機となるものですが、これは同時に、もはや人間が社会的生活に価値を見出さなくなる、というか、見出せなくなることを意味しています。

最終構成

昭和の高度成長期に育った僕のような世代は、未来になればなるほど社会はバラ色になると信じていたところがあります。社会というのは常に進歩していくものであり、遠い未来、人間は様々な問題を解決して、世界中の人たちが平等で幸福な人生が送れる世の中がやってくると、まがいなりにも信じていた。今考えれば、ほんといい時代だった(笑)。でも、実際、時代が進めば進むほど、バラ色どころか、未来の見通しがどんどん不透明になり、今や暗闇に向かって一直線という感じです。さきほど、ご紹介したベンヤミンなんかはあの時代に、人類が時間の経過とともによりよいものになっていくという「進歩」の考え方を真っ向から否定していました。彼はこんなふうに書いています。ちょっと読んでみますね。

「進歩の概念を、破局の概念に基づかせなければならない。このままずっと事が進むこと、これがすなわち破局なのである。破局とはそのつど目前に迫っているものではなくて、そのつど現に与えられているものである・・・地獄とはわれわれの目前に迫っているものではなく、ここでのこの人生のことだ」ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』p.402 (ちくま学芸文庫, 1995)

何とペシミスティック!!(笑)むっちゃ暗い人やなぁ、と言いたくもなりますが、フクシマの出来事を経験した今の日本人には、感じ入る部分もあります。おそらく、ここに来ていらっしゃる方も、今の社会を見る限り、日本に明るい未来が待っているなんて思っている方は一人もいらっしゃらないのではないですか。でも、わたしたちは今からもこの日本で生きていかなくちゃならない。しかし、誰もその未来のビジョンなんてものを持ち合わせてはいません。20世紀のように超大国が核兵器を持って睨み合っていた頃は、核戦争さえなければそれでもう十分と思えていた。だけど、イデオロギー対立がなくなり、世界が貨幣一色で塗りつぶされてしまってからというもの、人類が何のために存在しているのかという問いが、それこそ、むき出しの状態になってきて、個人個人の人生の上にも降り掛かってきているんですね。昔は、「人間とは何か」なんて問いは哲学者ぐらいしか考えなかったけれど、今の時代は、誰でも一度は自分が何者なのか、自分は何のためにこの世に生を受けているのかということをついつい考えざるを得ない時代になっています。

確か『人類が神を見る日』にも書いたと思いますが、OCOTは最初から言っていました。「人類がすべて自由で、平等になる平和な社会なんて決してやってこない」と。実際、人間は物質的に豊かになればなるほど、精神的には不幸になっている。それは否定できませんよね。OCOTはまた「人間の歴史とはあなたがたが考えているようなものではない」とも言います。そして、その文脈の流れの中で「人間の最終構成」という話を持ち出してきているわけです。つまり、人間には「終焉」というものがある、のだと。そして、実は1930年から、人間は、その「終焉」に向かって進んでいて、そのタイムスケジュールまで送ってきました。『人類が神を見る日』でも紹介しましたよね。「シリウスのハーベスト・プログラム」というヤツがそれです。

シリウスのハーベスト・プログラム

図2-5  シリウスのハーベスト・プログラム

OCOTがここで言っている「最終構成」というのは、世俗的なオカルトで騒ぎ立てられるような終末とは全く意味合いが違うものなので、その点は注意して下さい。つまり、この「最終構成」というのは、小惑星衝突や、核戦争やウイルス感染などで人類が滅亡するとかしないとかいった類いの話ではなくて、現在の「人間」という概念に終わりが訪れる、という意味なんです。つまり、わたしたちは、もはや自分たちのことを「人間」とは呼ばなくなる時代が、近いうちにやってくるということなんですね。想像できますか?もはや人間とは呼ばれなくなった自分や人類の姿を。

もともと「人間」という概念はここ2〜3百年前に西洋近代が作り出した概念にすぎないんですよね。人道主義のことを普通、僕らはヒューマニズムと言いますが、このヒューマニズムの元となるヒューマンはhumanite(ユマニテ=人間性)という言葉からきています。これは、もともとは人文という意味です。ですから、ヒューマンとは、もともとは文字が読めるものという程度の意味だったんですね。ですから、文字が読めない者は人間ではなかった。もっと言うと、18世紀後半のフランスの人権宣言においても女性は男性と同等の人間とは見なされてなかったし、19世紀のアメリカの黒人たちだってそうですよね。人間は近代ヨーロッパの白人男性に限られていた。現代のように、誰もが等しく人類の一員であり、人間である、という普遍的概念を持つに至ったのはごく最近のことです。だから、こうした「人間」という概念もいずれは変化していきますよ。そんなに長くは続かない。でも、近代理性というのは自分たちの思考形態が普遍的で絶対的なものだと思い込みがちです。古代人たちの知性は劣っていたとか、野生に生きる人たちは迷信に支配されているとか、ほんとに馬鹿なことばかり言っている。人間の意識形態というのは僕らが考えているような確固としたものではないんですよ。時代とともに、人間の人間性がより豊かになり、理想的な人間が完成されるなんてことはあり得ない。そうじゃなくて、人間というのは存在の一つの在り方にすぎないんです。そして、宇宙の変化と共にこの在り方は変化していく。そのくらい自由奔放に考えないとダメですよ。「人間」という存在形態は宇宙のエネルギーの流動の中で、エネルギーが一時的に停留している渦のようなもので、やがて渦をほどき、別なものへと再構成されていく。そういうものなんです。そう考えれば、人間自身が近い将来、人間という概念に終わりを見るということがあってもちっとも不思議じゃないですよね。事実、オコツトのいう「最終構成」とはそのような意味なんです。そして、この最終構成への流れは1930年からすでに始まっている。

これも『人類が神を見る日』に書きましたが、1930年というのは冥王星が発見された年です。不思議なことにこの冥王星が発見された年は、同時に冥王星の昇交点通過の年でもあったんですよね。昇交点通過というのは、冥王星軌道自体が黄道面に対して約17度ぐらい傾いているんですが、その面が黄道面と交差した位置のことです。つまり、冥王星が黄道面上に入ったときに、始めて、地球からも見えるようになったようなイメージなんです(下図参照)。OCOTは、自らを「冥王星の意識体」と名乗ったわけですが、彼に拠れば、冥王星とは最終構成のために送り込まれた霊的力の物質的射影です。最終構成自体は海王星へ働きかけによって起こるために、冥王星が海王星軌道の内側に入る1979年から1999年の間に完了すると言っていました。だとすると、もう、最終構成は終わっているということになります。人間は次なる存在形態に向かい始めている、ということです。

冥王星の惑星軌道

最終構成ということが具体的に一体何を意味しているのか、それを説明するために、『人類が神を見る日』では、確かこの冥王星が発見された時期に起こった一つの出来事に着目したと思います。それが量子論の確立というやつでしたよね。量子論というのは、20世紀初頭にマックス・プランクという人が創始した、ミクロの物理世界を扱う理論の総称のことです。その基礎が確立したのが、ちょうど冥王星の発見年に当たる1930年ぐらいの時期でした。そして、ここで物理学者たちの頭を悩ませたのが、世界の成り立ちについての問題だったんです。量子論というのは、今言ったように、物質の大本を作っているミクロの物理世界に関する理論なんですが、物質の大本というのは、実は正体不明の世界なんです。皆さんも「不確定性原理」という言葉は聞いたことがありますよね。これは『光の箱舟』にも詳しく書きましたが、量子という存在は、普通の物体のように位置と運動量を同時に測定することはできません。位置を決めようとすると運動量が分からなくなり、運動量を決めようとすると、反対に位置が分からなくなる。ともに確率としてしか表すことのできない、つかみ所のない、幽霊のような存在なんです。ですから、量子は確率の雲のような存在とも言えます。学校では、仁丹の粒のようなものとして習っているかもしれないけど、それはごまかしですよ。そう説明しておかないと誰も分からないから。こうした不可思議な振る舞いを持つ量子の哲学的な解釈をめぐって、1927年だったかな、世界中の一流の物理学者たちがソルベイ会議というのを開催したんですね。そこで、アインシュタインとボーアという当時の世界の物理学界の2大巨頭が大激論を交わしたのは有名な話です。

量子解釈に関する彼らの論争というのは、実在に対する哲学的な信念の違いによるものでした。ボーアは量子力学的実験が示す様々な結果から、観測者と独立したかたちで量子的な実在といったものはないと考えました。あるのは抽象的な量子力学の記述だけだと考えたんですね。これはコペンハーゲン解釈と呼ばれるものです。一方、アインシュタインは観測者とは別個に因果律に従う世界が確固として実在するはずだ、という信念を貫き通しました。アインシュタインの「神はサイコロを振らない」という言葉はとても有名です。この決着は一般にはボーアのコペンハーゲン解釈が勝利したかのようにも言われていますが、実際にはまだ決着がついたわけではありません。『光の箱舟』にも書いたように、いまだ量子の哲学的解釈については様々な解釈があって、それが一体何なのか未だに誰も知らないのです。物理学者たちは、とりあえずは量子の運動を予測できて、計算できて、コントロールできるのなら、それで十分ということで、哲学的な問題の中には立ち入ろうとはしません。といって、現代の哲学者たちがこの問題について深く切り込んでいるかと言うと、なぜかそれも全くできていません。

ここで何が問題なのかというと、宇宙が私たちの想像もつかない得体のしれない基礎でできているということを人間が「知ってしまった」ということが問題なんです。これは「分からない」ということよりも立ちが悪いですよ。この問題はもっと研究が進めばハッキリするとか、そういう問題ではないんです。量子論をある程度、知れば分かりますが、人間の今の思考形態では、その本質を理解することは原理的に不可能、ということなんです。これって、やっぱり最終構成を行うための準備作業ではないですか。人間の世界認識の在り方が、すでにこの時点で限界を迎えていた、ということなんです。でも、こんな恐ろしいことってありますか?僕はこれを『人類が神を見る日』の中で「認識の危機」というように書いたと思います。

認識の危機

1930年代くらいから、ヨーロッパではナチスの台頭で物理学者も迫害されはじめます。その後、第二次世界大戦が始まり、素粒子とは何かなんて考える事態ではなくなりました。そして、その後は、もうこの素粒子をめぐる「認識の危機」問題はずっと忘れさられたままになっています。1930年代から、世界はずっとこの不安定で脆弱な世界観のもとに、馬鹿の一つ覚えのように、近代的世界観を引きずりながら物質的な文明を押し進めているわけです。そして、このハーベスト・プログラムでは、冥王星が海王星軌道の内側に入った1979年に最終構成が開始され、ちょうど遠日点に入った年の1989年に新しい進化への方向性の力が発振し始めた、としています。これは日本では平成に入った年です。そして、それから10年後の1999年に「位置の等化」が起こり、今年2013年が「位置の変換」の開始の年となっています。

位置の変換

一昨年ぐらいだったでしょうか。果たして、OCOTが伝えてきたこのハーベスト・プログラムは正しかったのか、という点検作業を福岡の集まりで行ったことがあります。果たして、ここに書いてあるようなことが実際に起こったのだろうか、と。僕は「起こったのだ」とハッキリ言いました。誰も知らないところで実は起こっている。そして、2013年に生起するとされている「位置の変換」という出来事もまた、みんながあずかり知らないところで、たぶん起こり始めている。ただし、「位置の変換」になると、さっき、お話したように、今まで潜在化していた無意識が浮上してきますので、みんながその変化を認識できるようになってくると思います。

伝統的に、秘教的な知識というのは、経験しないと分からないとか、言葉にはできないとか、主観的なもので埋め尽くされています。僕のところにもよく霊感が強い方が来られて、よく自分の霊的経験について、いろいろとお話されるんですが、残念ながら、その方たちの経験に共感することはできても、経験を共有することはできません。だから、相互了解を取るのが難しい。もちろん、霊的な世界というのはそれぞれの主観性の中に息づいているものだからそれでいいんですが、OCOTが言っている「位置の変換」によって始まる人間のゲシュタルト変革というのは、決して主観的なものではありません。誰にでも認識可能というか、相互了解が可能なものなんですね。言い換えれば、こういうことです。霊的世界というのは、物質意識が先手を取っているときは、主観的なものとしてしか感じることができないけど、人間の世界認識に反転が起き、霊的世界が先手をとったときには、多くの人に感覚化され、共通了解が可能なものになるということなんです。ヌーソロジーはこのゲシュタルト変革のメソッドに関わっているという意味で、今までの経験重視の神秘主義や、霊的認識のメソッドとは全く違うものだと思って下さい。つまり、それらとは絶対的な差異があるということなんです。むしろ、それらが訴えてきた見えない霊的世界の存在を新しい知性によって、目に見えるものにするような、革新的な思想になっていくのではないかと感じています。そうした新しい知性の発現が「無意識の顕在化」という言葉が持つ意味だと考えていただければと思います。

実際に、去年あたりから、ヌーソロジーが展開する新しい空間概念を共有できる人たちもちらほらと出てきています。このレクチャーでこれから解説していく次元観察子という概念の認識も、たぶん皆さんと共有できるものとなっていくことでしょう。非常に手前味噌な言い方になって恐縮ですが、そうなれば、それがOCOTのいう「位置の変換」のはじまり、はじまり、ということになります。「位置の変換」というのは、僕からしてみれば、他者側にも無意識の顕在化が起きたときの状態を意味しています。そして、26年後の2039年には人間の無意識の風景のすべてが人間の意識上に開示される。これがハーベスト・プログラムに書かれてある「入神」というシリウス言語の意味です。「入神」によって、自己と他者の間で潜在化していた無意識構造の全体性がすべて見えるようになり、人間の意識は「ヒト」と呼ばれる高次元意識の原初形態へと進化を果たしていくことになります。

さて、今から起こってくるこの進化について考えるにあたって、「思考すること」の大事さについて、今一度、触れておかなくてはなりません。今、スピリチュアル系の世界では、必ずと言っていいほど、「考えるな、感じろ」って言いますよね?――つまり、悟性や理性より感性を重んじろ、と口うるさく言ってくる。その気持ちはよく分かります。確かに、現代人というのは、あまりにも知識や情報が先行してしまって、体感の重要性を失いかけている。だから、身体が持っている感受性を取り戻すことはとても重要なことだとは思います。でも、人間が持った感性というのはあくまでも受動的なものですから、いくら感性に立ち戻ったところで、能動者として、存在そのものの中に入ることはできません。意外に聞こえるかもしれませんが、人間の歴史で思考が先手をとったことなど一度もないんですよ。つねに感じることが先にあった。さっきも言いましたよね。人間の知性は与えられたものについての思考を運命づけられている。人間は感性で世界を感じ取り、そこで不快や不満を感じるからこそ、不快を快に変え、不足を満足へと変えようと思考をめぐらす。そして行動し、環境に働きかけていく。それが文明というものでもある。だから、文明の進歩においては、思考は常に感性の従僕であり続けているということなんです。分かりやすくいうと、いくら感じても、人間は決して満たされない存在だということです。受け取る存在から、与える存在へと転進をはからない限り、この文明の方向は決して変わりません。そのためには感性を超えた思考を作り出す必要があるのです。

感性を超えたところに展開していく知性というものがあるんです。感性を超えているわけですから、この知性は純粋思考によってしか獲得できません。ここでいう“純粋”というのは「感性の影響を全く受けていない」「感覚世界をベースにしていない」といったような意味です。哲学的に言うなら、脱-表象化の思考です。ですから、この思考は受動的なものではありません。能動的なものです。だから、「考えるより感じろ」さえも乗り越えて、わたしたちは、「感じるより考えろ」へという段階に進まなくてはならない、ということなのです。この「考えろ」というのは、感性に従属して働いていた悟性や理性が作り出してきていた思考ではなくて、能動知性における思考です。それが「noos=ヌース」の本来的な意味です。この新しく生まれてくる思考態度の重要性を、OCOTは次のように語っていましたね。

思考することの大事さ

ということで、時間が来てしまったようなので、2コマ目の話はここで終わります。

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