第1回東京ヌースレクチャー2013 vol.1 「創造空間の時代へ」

3コマ目前半 ケイブユニバース

─── 目次 ───

  1. ケイブユニバース
  2. グノーシスとヌーソロジー
  3. 精神と付帯質について
  4. 同一性と差異
  5. 同一性と言葉の関係

1. ケイブユニバース

では、3コマ目の話に入りたいと思います。ここからは、ヌーソロジーの本論の内容に入っていこうと思います。今日は第一回目なので、あまりギアは上げません。ゆったりスロースタートで行きましょう。

まず、最初に「ケイブユニバース」という言葉から説明しておきます。「ケイブユニバース」というのは、ゲージ理論のトポロジー研究をされていた砂子さんと2002年に出した『光の箱舟』という本でも紹介したと思いますが、ヌーソロジーが大前提としている宇宙の存在様式のことです。プラトンの「洞窟の比喩」からの連想で、「ケイブユニバース」と呼んでいます。「洞窟宇宙」といったような意味ですね。時空に映し出された物質世界を創造しているイデア(実体)が活動している宇宙を意味する言葉だと思って下さい。人間の無意識の奥に眠っている創造空間の連なりのことです。詩人のリルケの言葉を借りるなら、「世界内部空間」という言い方もできます。ケイブユニバースを「世界内部空間」とするなら、わたしたちが日頃経験している時間と空間の世界は「世界“外部”空間」と呼んでもいいような場所になります。

このケイブユニバースは、さきほど言ったように、霊的な力の流動を「世界外部空間」としての時空の中に物質の流動として映し出してきています。『光の箱舟』では、このケイブユニバースの構造を次のようなシンプルな図式で表しました。

ケイブユニバース

図3-1  ケイブユニバース(円環状の洞窟宇宙)

簡単に説明しておきましょう————今、わたしたちが時空と呼んでいる場所は、この図では「時空M」と書かれているところにあると思って下さい。この時空Mが「世界外部空間」、僕たちが日頃、宇宙として認識している場所に当たります。この時空Mから、実は創造の力の流れである「NOOS」(ヌース)が人知れず立ち上がっています。図ではブルーの矢印で描いています。NOOSというのは先ほど来言ってきた「神的知性」が持った等化の力の連続的な流動性のことです。このブルーの矢印を目で追いながら、NOOSがこのケイブユニバースの中をぐんぐんと上昇していっているイメージをまずは作って下さい。一方、このNOOSの流れとは正反対の方向に流動していっている力があります。それが先ほどお話した中和という力の流れに当たります。中和というのは「等化されたもの」という意味です。OCOT情報は等化の力である「精神」に対して、この中和の力のことを「付帯質」と呼びます。等化の働きを持つ精神に対して、それに必ず付帯する反映物があるということです。そして、この付帯質の力の流動性のことを、「NOS」(ノス)と呼びます。NOSはこの図ではレッドの矢印で表現されています。図を見て分かるように、NOOSとNOSは方向性が逆です。創造空間において能動的な力として働く力がNOOS、受動的に働く力の流動がNOS。まずはそう覚えておくといいと思います。

2. グノーシスとヌーソロジー

このケイブユニバースの宇宙イメージなんですが、別にこれはヌーソロジーの専売特許というわけじゃありません。古代では、こうした宇宙イメージは常識でした。これって、一般的にはグノーシス的宇宙観と呼ばれているものだよね。さっきプラトンのことを少し話したけれど、プラトンの宇宙観も、その意味ではグノーシスと考えていいです。「グノーシス」というのは古代ギリシア語で認識や知識を意味する言葉で、自己の本質と神についての認識に到達することを追求する思想です。自己が直接、神に触れられる、つまり、接神が可能と考える思想。グノーシス思想は1世紀から4世紀ぐらいまで、地中海沿岸のいわゆるヘレニズム文化圏の中でとても勢力を持っていた思想なんだけど、『人類が神を見る日』では、このグノーシスが持った宇宙観をこういう図で表したよね。

グノーシスの宇宙観

図3-2  グノーシスの宇宙観

この図で霊的天使と書いてある部分がNOOSの流動性で、物質的天使と書いてあるのがNOSの流動性に対応していると思って下さい。端的に言えば、NOOSが創造を司る力の流れのことで、NOSが創造を受け取る側の力の流れのことです。

グノーシス主義には広義のグノーシスと狭義のグノーシスというのがあって、広義の方はアレキサンドリアを中心とした地中海沿岸の地域で、西は古代エジプトの神学や、東は古代ペルシアのゾロアスター教に端を発したミトラ教やマニ教などの流れが合流して生まれた宇宙観全般を指すんだけど、狭義の方は、それらが草創期のキリスト教に流れ込んだものを指します。イエスはユダヤ教の中のエッセネ派というグループにいたと言われているんですが、このエッセネ派も、もろにグノーシスのグループだったことがわかっています。キリスト教がグノーシス派をその後、異端として弾圧していくのは有名な話だから、キリスト教の教えは立ち上がった時点で、もはやイエスの説いた教えではなくなっていたと言っていいかもしれないね。このへんのことは『人類が神を見る日』にも書いたけど、パウロらが作った原始教会によって、イエスの教えが帯びていたグノーシス的色彩は失われて、原始教会は後のローマカトリック教会の礎を築いていくことになります。人は決して直接的に神に触れることはできず、教会を通してのみ、神と通じることができるとする、おなじみのキリスト教的ドグマが出来上がっていくわけだね。要は、イエスというのはクリスチャンではなかった————これ、結構、みんな忘れていることなので、しっかりと心に留めておきましょう。

さて、このグノーシス主義では、ヌースに宇宙精神という意味が持たされていて、ヌースは世界を創造した神の知性そのものと考えられていたんだよね。一方、物質的天使の流れの方は、最終的にエピノイア(偉大なる思念)と書かれているところにまで下降してくる。エピノイアは別名「最初の思考」とも呼ばれていて、光の中に秘められた精神の力のことを意味しています。グノーシス主義においては、このヌースとエピノイアの関係は、そのまま、神と人間の関係として考えられていたと思って下さい。人間を生み出したのが神だとすれば、神を生み出したのは人間である、という、人間と神との相互反照的な関係がグノーシス主義者では当たり前のことのように考えられていた、ということなんだね。このへんの関係はOCOT情報と全く同じです。つまり、グノーシス的な見方をすれば、人間存在とは宇宙における女なるものの意であり、霊的天使を産出していく女神ソフィアだということなの。ただ、人間はデミウルゴスという造物主の力によって、この霊的天使の世界が見えなくさせられていて、本来の女神ソフィアとしての役割を忘却しているってことなのね。それを思い出して、再び、天上世界へと霊的天使となって帰還することが人間の務めであると、グノーシス者たちは考えていたわけだよね。

人間とは 女 なるものである。

さて、このように、グノーシスにも登場するヌースだけど、古代ギリシアでは「旋回する知性」なんて呼ばれ方もされていました。神の知性である創造的知性というものは旋回するんです。これは割と受け入れやすいんじゃないかな。というのも、僕たちが経験している物質世界では、なぜか、いろいろなものが回っているよね。物質は原子や分子でできているわけだけど、みんな、グルグル回っています。原子核も回れば、電子も回っているし、分子だってつねに振動している。マクロ世界を見ても同じです。第一、地球が回っているよね。月も回っている。太陽も回っている。惑星はみんな回っているし、太陽系だって回っている。銀河系だって回っている。とにかく、全部、回っているでしょ。このグルグルと回っている回転力、実はこれがNOOSの影なんです。「回転とは等化の本質です」とOCOT情報は言います。精神の力というのは、物質世界に投影されると、回転として姿を表す、と思って下さい。世界は決して無意味に回っているわけではないということです。

NOOS とは回転力のこと。

NOOSは風車のようにぐるぐる旋回する。そして、旋回しながらヘリコプターのようにどんどん上昇していく。こうして、一者という最終的なゴールを目指して、ケイブユニバースの中をNOOSが流動していっているとイメージするといいです。当然、それに反映される下降側のNOSも同じです。そして、この図に描かれているように、それら上昇と下降が、再び、この時空でぶつかり合って、プネウマ(霊)の火花を散らしている。それがこの現象世界です。このプネウマの火花、皆さん、感じますか(笑)。

2世紀に現れたギリシアの新プラトン主義者プロティノスも物質世界のことを「ヌースの模像」と呼びましたが、この模像感覚をこの図を使ってイメージするとだいたいこんな感じです。

まず、自分がNOSの流れに乗って、この物質世界に下降して、首を突っ込んできた存在だと思って下さい。目の前には、その物質世界が出現してきています。ここでNOOSとNOSが正面衝突しているんですね。一方で、NOOSの上昇が物質世界でどのように見えているかというと、ミクロ世界からの段階的な上昇として考えるといいです。NOOSはまず素粒子世界を作り、原子、分子、鉱物、DNA、細胞、植物、動物というように、その上昇とともにスケールを大きくして行き、最後に人間の肉体を作る力となって、下降側のNOSとぶつかり合っている。目の前に他者としての肉体がありますよね。それが、NOOSが最終的にたどり着いた一者の場所です。その意味で言えば、僕らの目の前に出現している他者とは世界精神=神の影のようなものと言っていいかもしれません。一方、自己の方は、自分の身体を客観的なものとしては見ることができませんから、エピノイア=人間です。他者は神、自己は人間。この仕組み、分かりますか? こうした配置関係のことを、OCOT情報はオリオンとプレアデスとして伝えてきているわけです。オリオンとは他者世界、プレアデスとは自己世界。そう言っていいと思いますよ。

3. 精神と付帯質について

    さて、ここで、お配りした資料の方を見て下さい。2枚目の右下部分あたりです。これは、僕が最近、Facebookに投稿した文章なのですが、ちょっと読んでみますね。

Facebookからの引用

図3-3  Facebookからの引用

とてもシンプルな文章ですが、ここではOCOT情報が伝えてきた精神と付帯質という概念が持った意味の関係を「男」と「女」という言葉に置き換えて端的に説明しています。どういうことかと言うと、僕はいままでの本で、付帯質で支配された世界のことを「プレアデス」というふうに呼んでいましたよね。そして、付帯質が何か悪いものであるかのような印象を臭わせていた部分があります。僕自身も1997年当時はそのように考えていたから、そういった表現になったのですが、その間違いを、今、ここで正式に訂正しておきますね。付帯質――これはOCOT情報で言えば、精神に付帯する影の力といったような意味なのですが、「力の無為質」などと呼ばれたりもします。力の無為質というのは、文字どおり、力が何も為さないという意味です。ここでの「為す」という意味は創造=生成のことと考えて下さい。つまり、付帯質の力は創造には何一つ寄与しない、ということ。あくまでも付帯質は精神の反映物として存在しているものであるから実体を作り出すことができない、実体を持つことができない、そういった意味です。実体が何一つ存在しないのだから、付帯質の世界は無の世界と言っても構いません。でも、なぜ付帯質が「無」の意味を持たされてしまうのか、ここでは、その原理的な部分について説明しておきます。

OCOT情報は、付帯質の世界とは物質世界とほぼ同じ意味だと言っていますが、この付帯質自体の大元は何かというと、相対する二つの方向の精神、分かりやすく数にたとえれば、+1側の精神と-1側の精神を合わせ持った力のことです。

付帯質の大元は、1、-1 を合わせ持ったもの。

世界外部空間から世界内部空間へと向けて一つの精神がプラス方向に立ち上がり、マイナス方向にも逆方向の精神が立ち上がるとしましょう。それら二つの力が一体化してしまうと、結局プラスマイナスゼロになってしまいますよね。互いの精神の方向性が逆を向いているわけですから、これら二つが合わさってしまうと、結局、それぞれの方向性が相殺されてしまうわけですね。ですから、付帯質の世界というのは、もともとは1側と−1側の精神を統合した精神の力が作り出しているものだということになります。こうした統合のことをOCOTは「精神における対化の等化」と言います。「精神における対化の等化」とは、正反対の方向にある二つの精神を一致させる。もしくは、正反対の方向にある二つの精神の方向性の対称性(入れ替えても変わらない)を形成する、といったような意味です。この正反対の方向にある二つの精神とは何かと言うと、それが、日頃、僕たちが日常生活の中でいつも経験している「わたし」の精神と「あなた」の精神のことなんです。

1 と-1 とは、 と あなたのことである。

この理屈からすると、世界には「わたし」と「あなた」の精神を一つに統合している、より高次の精神というものが存在していて、その精神による統合の力が私たちの意識に付帯質としての世界、すなわち物質世界を提供してきているということになります。この精神は、1と-1を別物と知った上で、そこから両者を統合しているわけですから、物質の創造の起源が「わたし」と「あなた」の精神にあることを知っています。しかし、わたしたちは、「わたし」と「あなた」が統合もされていなければ、また、物質の由来も全く知りませんよね。第一、物質世界に「わたし」と「あなた」の精神が浸透しているなんて、想像すらしていない。だから、わたしたちが見ている世界の状態は付帯質であり、物質が生成されている力の起源についても何も知らない、という意味で、「無」に等しい世界だとOCOTは言っているのです。ここで、当然、「わたしには宇宙が無だなんてとても思えない。現に宇宙には物質が無限にあるじゃないか」とストレートに反論する人もいるでしょう。でも、何度も言うように、ここでは結果として生み出された物質世界について言っているのではなく、物質世界を生み出した原因となる実体側の力について言っていると思って下さい。物質が自己と他者の精神が一つに結ばれて生み出されたものだとすれば、わたしたちが持っている「単なる物質」という認識には、そうしたイマジネーションが全くと言っていいほど欠如しているわけですから、そのような宇宙は生成を持たないという意味において、「無」も同然だということです。

4. 同一性と差異

だから、人間が実体の世界を見出すためには、無の痕跡として生み出されている時空世界に向いている現在の自己と他者の意識の方向性を再び1と-1という二つの生成場の方向性へと反転させることが必要になります。精神の方向性を持たないプラスマイナスゼロの世界の中から互いに一歩抜け出して、意識に精神の方向性を持たせなくてはならないのです。この脱出がヌーソロジーでよく用いる「差異」を意味します。この「差異」という表現は、もともとはドゥルーズという哲学者の言葉です。

この「差異」という言葉、哲学からの借用なので分かりにくいかもしれませんが、これは、ハイデガーという哲学者が最初に言い出した「存在論的差異」という言葉に由来しています。存在論的差異というのは、一言で言えば、存在するものと存在すること自体の差異です。ハイデガーに言わせれば、今までの哲学は、物であれ、思考や感情などの人間の精神的産物であれ、みんな「存在するもの」について考えてきたにすぎません。宇宙とは何か、人間とは何か、理性とは何か、哲学とは何か、というように、いろいろと考えたとしても、これらの問いは常に、「存在するもの」についての問いかけにすぎませんよね。ハイデガーは、こうした「存在するもの」に対する問いかけから一転して、存在そのもの、つまり、それらを「存在するものに仕立てたもの」について思考し始めたわけです。これが哲学の世界で「存在論」と呼ばれているものです。これは、それまでの「存在するものに」対する哲学である「認識論」に対する、一種のアンチテーゼのようなものです。哲学における、この「認識論」から「存在論」への思考態度の転向はとても重要なものと言えるでしょう。というのも、認識論は常に、認識する主体と認識される対象というように、主客の分離を前提とするものですが、存在論の方は、こうした主客の分離概念を破棄しないと、その思考の中に入っていけないからです。これは、存在論の思考が実はイデアを射程に持っているということを意味しています。最初に言いましたよね。イデアとは思考するものと思考されるものの一致としてある、と。このハイデガーの登場によって、20世紀以降の哲学は主体性の哲学から、主体性を脱していこうとする哲学へと進路変更を余儀なくされています。まぁ、ある意味、〈脱-自我的〉方向にあるということです。先に紹介したドゥルーズなんかは、その先鋒を行っている哲学者と言っていいでしょう。ヌーソロジーもまたこうした存在論的な問題意識を常に傍らに携えながら作業しています。イデアの再生を唱えているわけですから当然ですね。そして、この問題意識の部分が、ヌーソロジーが一連のスピ系の思想と大きく一線を画すところでもあるんです。

ある種のスピ系の思想は口癖のようにワンネスを唱え、愛が大事だと主張しますよね。世界は一つ。わたしたちも一つにならなきゃいけないって。気持ちはとてもよく分かります。ヌーソロジーもそのこと自体は否定しません。だけど、この「ひとつ」という言葉には十分、注意を払う必要があります。ユダヤのワンワールド思想というわけではありませんが、世界は一者的精神によってすでに一つにまとめられているということなんです。これが、さっき言ったハイデガーのいう「存在」です。その存在の温床として、客観的世界、つまり物質世界というものが意識に出現しているのだと考えて下さい。そして、この一者的精神が送り出してきた近代以降の物質意識こそが、実はわたしたちの現在の自我意識を支えているものなんですね。つまり、人間の世界において出現してきている自我とは一者的神の投影のようなものだということです。だから、ある意味では、ワンネスの世界はすでに自我として実現していると言ってもいい。だから、自我がワンネスを声高に唱えるときは、独りよがりのワンネスを叫んでいる場合が多々あるということなんです。こうした、偽ワンネスの罠に落ちないためには、まず、「わたし」と「あなた」は全く違う存在なのだという自覚を皆さんひとりひとりが持たなくちゃダメです。ここでいう「違う存在」という言葉の意味は、単に人格が違うとか、ルックスが違うとか、そういった違いではありませんよ。意識の在り方自体のことです。「わたし」という意識の在り方と、わたしから見た「あなた」の意識の在り方は根本的に全く違うものでしょ。「わたし」は常に「わたし」から世界を感じる以外になく、「あなた」になって世界を見聞きすることはできません。「わたし」は「あなた」を常に外側しか見ることができない。「あなた」側からにしても、全く同じことが言えます。自己と他者のこうした現れ方の絶対的な違いを自覚することなく、「わたし」と「あなた」は一つだ、と、愛を叫び続けるなら、それは愛のファシズムにしかなりません。こういう愛はろくなもんじゃありませんよ。

時間と空間で支配された世界との間に「差異」を作って、私が見ている宇宙とあなたが見ている宇宙をまずは二つに分けること。こうした概念を思考によって作り出すことが極めて重要なんです。それが見えないと宇宙の秘密は決して解けないし、「わたし」と「あなた」がつながっているほんとうの愛の通路、内在的愛の世界とでもいうのかな、それが開くことは決してありません。同一性から差異の方向への眼差しを作り出すこと。これが、ヌーソロジーのいうところの「意識の反転」の意味です。「存在」によって支配された「存在するもの」の世界から、新たに存在側そのものに入ろうとする試みなんですね。「存在するもの」の世界から、「生成するもの」の世界へ。「ある」ことではなく、「なる」ことへ。それが、ヌーソロジーのスローガンです。

ここでいう「同一性」というのは哲学の用語なので、もう少し、分かりやすい補足が必要かもしれません。たとえば、よく「僕も君も同じ人間」という言葉を耳にしますよね。ここにも同一性が背景にあります。つまり、自己と他者を「人間」という同じ概念で一括りに捉えているということです。こういう見方は必然的に人間をマスで見る見方を助長します。たとえば、市役所の窓口に座っているおじさんをイメージしてみて下さい。おじさんの前には住民のデータベースにアクセス可能なパソコンが置いてあります。そこからは、それこそたくさんの個人情報にアクセスできることでしょう。そこで、僕に順番が回ってきて、たとえば住民票の発行を願い出るとします。おそらく、そのおじさんにとっては、僕は、Aさん、Bさん、Cさん云々、というように、無数いる市民の中の一人のDさんにすぎません。おじさんが別に悪いわけじゃありませんよ(笑)。国や市町村といったような共同体の世界では、個人はこうして必ず一般化されてしまう運命にあるということなんですね。つまり、人間は物質的肉体という形で、物理的に時間と空間の世界に投げ込まれているのみならず、社会的にも、日本人や、市民、町民という一般化された概念で括られてしまうわけです。それぞれの人間同士にたとえ個体間の差異があるとしても、それはルックスとか、個々のセンスとか、性格とか、肉体の中に芽生えている内的な多様性(特殊性)としか見なされない。こうした視点で作り出されている人間の個が、先ほど言った社会的個というものです。社会が持った、こうした個への対応を考えてみればすぐに分かると思うのですが、こうした違いは、ある意味、取り換えが可能ですよね。会社の社員であれば、働けなくなったらクビにして、同じ能力を持つ別の人を雇えばいいし、極端な話、恋人だってそう。振られたらまた別の彼女や彼氏を探せばいい。女なんてたくさんいる、男なんてたくさんいるわよ、ってな言い方で、僕らも友人を慰めたりするでしょ。要は、社会生活においては、人はあたかも機械の部品でもあるかのように取り換え可能なものとして扱われ、そこでは、人と人との関係は単に「〈それ〉と〈それ〉」のような関係でしかなくなってしまうということなんです。結局、それぞれの個という存在は「それら」で十把一絡げに括られてしまう存在にならざるを得ない。これじゃ、単なる「物」と何の違いもない。そうした世界が、精神が全く見えていない世界、OCOTのいう付帯質の世界だと思えばいいです。

5. 同一性と言葉の関係

さぁ、ここで、もう一歩深く突っ込んで考えてみます。では、人間はなぜ、こうした無も同然の付帯質の世界を実在の世界だと考えてしまうのでしょうか。その錯覚を起こさせているのは、たぶん「言葉」です。言葉はとても不思議な存在ですよね。言葉の起源を科学的に脳の電気信号の中に探ってもまず何も分からないですよ。ハイデガーは「言葉とは存在の住処」だと言いましたが、OCOT情報でも「言葉とは総意です」と言っています。これはほとんど同じ意味と考えていいです。「総意」とは、さっき言った+1と−1の精神を統合した精神の力の意味です。つまり、1と-1という差異を統合した存在の精神が実は僕らの無意識の中で先行していて、その統合力が、人間の意識に言葉を送りだしてきているということなんですね。このへんは、ついつい「初めに言葉ありき。言葉の命は光であった」という、「ヨハネによる福音書」の冒頭部分を思い出すところですが、となれば、言葉というものは、つねに付帯質と共に存在していることになります。どういうことでしょう?つまり、言葉とは神の痕跡に等しいものだということです。

実際、不思議でしょ。わたしとあなたは見ている世界が全く違っているのに、なぜ言葉でコミュニケーションができるのでしょう。人それぞれ知覚している世界は全く別々ですよ。いや、別々かどうか確かめることさえおぼつかない。よくあるでしょ。君が見ている赤色は僕が見ている赤色と果たして同じなのか、違うのか、といったような議論。常識で考えられているように、もし人間が世界を知覚した後で言葉が生まれてきたのなら、言葉も、それぞれの知覚に準じて作られているはずだから、そういった言葉が自己と他者の知覚を統合できるはずはありません。ということは、実は、言葉は知覚より先に生まれていた可能性がある、ということなんです。実際、小さな子供たちが成長して、何の支障もなく社会の中に入って行けるのも、大人たちが使用する言葉の体系(象徴界)が前もって先に存在しているからです。

言葉は、「わたし」と「あなた」が生まれる以前に、「わたし」と「あなた」の間にある深淵なクレバスを渡った精神によって作られた。そして、その精神が「わたし」と「あなた」を結びつける一つの神霊として働き、社会の営みや国家の成立を可能としている。OCOT情報をまともに受け取るなら、このように言えそうです。言葉とはそれほど深い霊力の産物だと考える必要がありますね。そして、言葉は、おそらく、世界に出現している物質の多様性と同じぐらいの深みと皺をその内部に含み持っていることでしょう。言葉はものを指し示すために人間の意識が生み出した単なる表面的なラベルのようなものなんかでは決してありません。だから、私たちがこれからやるべきことは、この言葉の力の源泉となっている一者の神霊(ヌーメン)の支配から脱け出して、再び、新しい精神の「1」と「-1」へと方向性を作り出すことです。これをOCOTは「対化の顕在化」と言います。双子の精神が新しく目覚めるという意味です。姿を隠してしまった「一者」で支配された同一性の世界から、差異化のための対なる新しい精神を双子として誕生させなくてはいけません。

もちろん、すでに「最終構成」の時代に突入していますから、スピ系やポスト構造主義の一部の思想が、現在、この同一性からの脱出をいろいろな方法で模索してはいるのですが、ヌーソロジーの方法論は極めて明解、明瞭で、それを空間の反転認識で行なおう、というものです。もし、わたしとあなたが見ている空間が互いに反転しているならば、わたしたちたちが見ている世界は実は同じものではない、ということになります。今は誰もそんなこと思っていませんよね? 共通の時空という中に、自分も含めて人類全体が全部その中にいる、そう思っているでしょ。そうした宇宙の中での人間観というのは、それはそれは矮小なものです。宇宙は想像を絶するほど巨大な存在だけれども、それに対して人間は取るに足らないようなちっぽけな生物で、大宇宙の片隅の、銀河系の片隅の、太陽系の片隅の、地球の片隅の、蟻さんのような存在として生きている、というようなイメージですよ。これが付帯質に縛られた人間の自分に対する認識です。でも、そんなこと絶対信じちゃダメですよ。それは付帯質が作り出した妄映です。それこそ、デミウルゴスの策略です(笑)。このイメージを根底から変えなきゃダメです。人間というのは、決してそんな存在ではありません。

私とあなたの間に空間の反転関係があるということが認識の中に形作られてくると、時空は二つに分割され、全く別の空間形態が意識に出現してきます。この新しい空間形態の出現によって意識は同一性の温床として働いていた時間と空間の世界からオサラバします。つまり、自他それぞれが、自分固有の主観空間というものを、幾何学的にイメージできるようになるということです。この固有の空間は数学的には複素空間として表現されてきます。時空というNOSが支配する場から、意識が反転を起こし、NOOSが芽生えてくるということです。この複素空間の場は時空世界の中では物理学者たちが素粒子として見えていたものに対応しています。つまり、NOOSの力が人間の意識に素粒子の本質を見えるようにさせてくるということですね。そうやって、僕らは、このケイブユニバースという生成世界の中に突入していくという筋書きになっています。

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