第1回東京ヌースレクチャー2013 vol.1 「創造空間の時代へ」

4コマ目前半 旧約聖書の中のプレアデスとオリオン

─── 目次 ───

  1. シリウスファイルにおけるNOOSとNOS
  2. オリオン・シリウス・プレアデスの三位一体

1. 旧約聖書の中のプレアデスとオリオン

さぁ、では、最後の四コマ目の話に入りましょう。

最後は「ユダヤ的なるものの彼方に」というタイトルにしました。サブタイトルに「科学主義と宗教主義を超えて」とあります。ここにある「ユダヤ的なるもの」というのは、先ほど少しお話しした「ユダヤ民族とは現在の人間の核質です」というOCOT情報を意識して書いたものですが、僕自身はこの核質という言葉をユダヤ民族に直接、重ね合わせてイメージしてはいません。「ユダヤ的なるもの」というのは、ズバリ、現在の人間の自我意識の核力のことと考えて下さい。つまり、ユダヤ民族に色濃く現れている一神教的な精神の働きが、人間の歴史において人間の自我意識の成長を先導してきたのではないかと考えているということです。実際、現代の都市に生きている人々のほとんどはユダヤ人たちが考案した銀行・証券・保険などの金融システムのもとに生きているわけですから、この「ユダヤ的なるもの」にどっぷりと染まって生きていると言っていいと思います。「全人類がユダヤ化されている」なんて聞くと、陰謀論に興味を持たれている人たちは、すぐにフリーメイソンやイルミナティ云々の話で盛り上がるのだろうけど、ここで言っているユダヤ性というのはそのような外に向かった意識の話ではなくて、内に向いた意識、つまり人間の無意識についての話なんですね。だから、自分の主義主張を絶対視したり、他者を否定することによって自身を正当化するような、言うなれば否定や反感を先手として生きがちな人間精神の在り方そのもののことを指すのだと思って下さい。決して国家主義とか民族主義の話をしているのではありません。国家主義や民族主義といったイデオロギーも自我意識内部の生産物にすぎないということです。ヌーソロジーが「ユダヤ的なるもの」と言うときには、こうした自己同一性に囚われた人間の意識状態を指すと思っていただければと思います。

この「ユダヤ的なるもの」を超えて、僕らは新しい人間のビジョンを作り出していかないといけません。つまり、自我意識を乗り越えたところの新しい主体のイマージュ、まぁ、こうした生き物はもう人間とは呼ばず、OCOTが言うところの変換人ということになるのだろうけど、それを新しい思考様式のもとに作り出していく必要があります。

この新しい思考様式を構築していくためにどうしても必要なのが、今あるようなかたちで人間が人間たらしめられているのはなぜか、という無意識構造に対するメタな認識なんですね。この無意識の詳細な地図の作成を行なって、まずは自我の由来に対して自意識的になること。これが必要です。

OCOT情報をいろいろと解読していった結果、この自我意識の成立の背後には「存在のトリニティ」とも言っていいような三位一体の構造があることが分かってきました。もう、皆さんにもおなじみだよね。それが、さっきから紹介しているプレアデスとシリウスとオリオンの三幅対です。

プレアデス・シリウス・オリオン
6,500年×4=26,000年のナゾ

ヌーソロジーが頻繁に用いるこのプレアデス・シリウス・オリオンという名称は、決して物質的な天体名を指して言っているわけじゃないのね。今日の話の流れからも分かるとは思うんだけど、夜空の星々もまたさっき話したケイブユニバースの中で生成されている精神流動の影としてある、というのがOCOT情報です。要はミクロ世界の物質にしろ、マクロ世界の物質にしろ、それらはすべて実体として活動する精神の影として現れたものだということなの。

僕らが目にする大地の方向には大自然が広がっていて、そこにはミクロに始まって肉体レベルに至るまで様々な生成物が生まれています。一方、夜空を見上げると、今度は月を始めとして太陽や諸惑星、さらにはその背後を覆い尽くすように無数の星々が存在させられている。身体スケールを挟んでのこうしたミクロ世界とマクロ世界も、高次元から見ると美しい対称性を持って存在させられている、というのがOCOT情報です。対称性というのは難しい言い方かもしれないけど、要は、ミクロ世界とマクロ世界もまた互いに鏡に写された像のような関係としてあるということなんだね。僕らの内在性の中で蠢いている精神的実体がミクロとマクロの方向にあたかも別個のもののようにして映し出されているだけ。このへんの内容は世に数あるチャネリング情報の中でもかなりユニークなところじゃない?聞いたこともないものすごい話だよね。

たとえば、以前、OCOTに「細胞とは何か?」と聞いたとき、「細胞とは恒星のことです」と返してきました。ひっくり返りましたよ。一体、こやつは何を言っているのかって(笑)。こういった物言いは、大小などいった尺度概念で空間を思考しているうちは絶対に理解できませんよ。時空から垂直に穿たれた別種の空間、さっきの言い方をするなら世界内部空間の中が見えて初めて理解可能になる話なんです。ここで言う、プレアデス・シリウス・オリオンも、普通に考えるなら夜空を彩る天体たちの呼称だよね。でも、これらの世界もOCOTにとっては僕たちの内在性の奥底に住まう何らかの実体の射影のようなものとして把握されているんだね。まぁ、この辺はたぶんものすごく高次の世界だと思うんだけれど。そして、人間の意識自体がこれら3つの実体の力を使って脈動しているのだとOCOTは言ってきます。

先ほど3コマ目の話で最後に紹介した、6,500年×4=26,000年という交替化の周期の運動というのも、このプレアデス・シリウス・オリオンが持った精神の力が関わりながら動いているとしています。それについては後で具体的に説明すると思うけど、OCOTが語るシリウスとオリオンとプレアデスには、それぞれ中性的、男性的、女性的なイメージがあるんだよね。シリウスについてはエジプト神話やドゴン神話にもとても重要な星として登場してくるから、霊的なものと何か重要な関係があるのではないかと想像することはできるけど、オリオンとプレアデスを霊的なものとの関係で語っている神話というのは意外と少ないのね。たとえば、ギリシア神話ではオリオンはプレアデスを執拗に追っかけるストーカーみたいになっているのでチト違うし(笑)。日本神話にはツキヨミとアマテラスがそれぞれオリオンとプレアデスの関係に当たるって話があるんだけど、ツキヨミについてはほとんど謎とされているので、具体的なイメージがつかめない。それで唯一それらしきことが書いてあるのが旧約聖書だったんだよね。その記述は有名な『ヨブ記』というのに出てきます。日本人は旧約聖書なんてほとんど読まないので、この『ヨブ記』についてもほとんどの人が知らないよね。面白い話なので、一応あらましを紹介しておきますね。

ヨブというのはある男の名前です。ヨブは敬虔な信仰の持ち主で、生活もすごく恵まれた人だったのね。家畜を千匹以上飼っていて、美しい奥さんを持って、子供も十人ぐらいいて、何一つ不自由のない幸せな生活を送っている男なんです。あるとき、ヨブの神に対する篤い信仰心を腹立たしく思っていた悪魔が神に相談を持ちかけるんだね。「あそこにあなたのことを篤く信仰しているヨブという男がいます」。神は「感心な男だ」と答えます。そこで悪魔が言うんです。「でも、見ていて下さい。あの男、もし財産と子供を失ってしまったら、神の恩恵を信じなくなって、あなたのことを信仰しなくなる。ひとつ試してみませんか?」って。すると、この神というのがひどい。「やりなさい」って(笑)。

で、悪魔はヨブが飼っていた家畜を皆殺しにします。そして、住んでいた家も大風でなぎ倒して子供たちまで全員殺しちゃう。ヨブは悲しみのどん底に落とされます。でも、なぜか神への信仰は捨てない。こんなことになったのは自分のせいだと。もともと神が全てを与えてくれたんだから、全て失うのもまた神の思し召しだと。裸一貫で最初に戻ればいいだけの話じゃないかと妻に言うんです。すごい男です。「主は与え、主は奪う」という有名な言葉があるのだけど、これはこのときのヨブの心情を表したものです。そう言ってヨブは神を恨まない。逆に神に対する信仰をもっと強くする。で、悪魔がそれを見ていて「こいつやるなあ」と(笑)。そして、もっといじめてやればきっと神を呪うようになるはずだと思い、今度はヨブを病気にしてやろうと考えます。『ヨブ記』の中では皮膚病と書かれていますが、これはおそらくライ病のことです。ライ病で地獄の苦しみを味あわせてやろう、そうすればいくらヨブでも神に対する信仰を捨てるだろうと悪魔は考えた。そこで、また神に訊くんだよね。「試していいか?」って。すると、神はまた「やりなさい」と。ホントひどくない?この神さま。

悪魔はさっそく実行に移します。ヨブはさらに苦しみます。のた打ち回ります。考えてもみて下さい。裕福で、いい家に住み、妻にも子供たちにも恵まれて、体も健康そのもので順風満帆だった人生から、一気にすべてを奪われて、おまけに体までがライ病に侵される。天国から一気に地獄に叩き込まれたようなものです。それで神さまに対する信仰がヨブは弱まったかというと、やはりそうはならない。ヨブはそれでも神を信じ続ける。

友人たちがやってきて、「おい、ヨブ。お前、こんなことになったのは、お前が絶対何か悪いことをしたからだぞ。お前が何か罪を犯したから神がこうやってお前に仕打ちしているんだ」と言います。でも、ヨブは頑として否定する。「私は疾しいことなど一つもしていない。私はずっと神を信仰し、ただ正しい行いだけをしてきた。だから、こうなったのは私の責任とは思わない。私は神に異議申し立てをする」と。これはヨブの神への反発というよりも、強い信仰心を持つがゆえの態度だと考えるといいと思います。そして、ヨブは神に訴えかけます。神はヨブの訴えを聞き、最後はヨブの人並みならぬ信仰心を褒め称えて、家畜と家と子供を与えて、ヨブの元通りの暮らしを再現します。そして、ヨブは幸せな余生を送りましたとさ、という話なんですが、この話、皆さん、どう思いますか? ユダヤ教徒にとっては、たぶんこの話は素晴らしい話だと思います。でもね、僕はこの話をどうしても好きになれない。実はこれは自分の経験した出来事から言っています。きょう最初に1985年に起こったチャネリングの話をしたよね。僕はそのクライマックスで、自称神と名乗る存在と出会ったんだよね。でも最後は殺されそうになって発狂してしまい、そのまま精神病院に搬送された。そのときの記憶がこのヨブ記の話を拒絶するんだよね。偽神だって。もちろん、僕が対面した神がユダヤの神だったとは言いません。でも、どこかよく似た臭いがするんですね。ちょっと話が横にそれちゃうかもしれないけど、大事な話だと思うので少しだけ話しておきましょう。

チャネリングの相手は最初、オリオンのNOMIという存在でした。彼は僕を、それこそスウェデン・ボルグの「霊界物語」のように、いろいろな世界を案内してくれて、生命の誕生や、地球の進化、死後の世界等についていろいろと教えてくれたんですね。しかし、途中、無意識の中でうごめいている強大な大渦の中に巻き込まれ、そこで迷子になってしまうの。まぁ、今思えば、このときすでに完全に発狂していたんだけどね。そして、飲まず、食わず、眠らず、の状態で丸三日間、当時棲んでいた吉祥寺の街を、狂人となって徘徊して回る。そして、最後のクライマックス。場所は忘れもしない。真夜中の井の頭公園でした。電信柱にとまっていた一匹の雀が「もう、心配しなくていいです。まもなくオリオンの父が来られます」と優しく語りかけてきて、辺りが急に精妙な雰囲気になってきました。すると、上空の雲の間から神々しい声が聞こえてきて、この自称神と名乗る存在と対峙します。この存在は、それは、それは荘厳な雰囲気で、威厳に満ちた声で語りかけてきました。「コウセン、よく頑張った。ここまで来るのは大変だったろう」って。というのも、無意識の中で僕はいろいろと試されたんだよね。自分の幼少期に連れていかれ、そこで自分の深いシャドーを見せられたり、あるときは「おまえは鳥だから、高いビルから飛び降りてみろ」とか「犬のウンコを食べろ!」とか、これはちょっとレベル低すぎだけど(笑)。NOMIから始まったこの一連のチャネリングの流れは、とにかく次々に無理難題を押し付けてきては僕を試した。この「試す」というのがとてもユダヤ教っぽいんだね。アブラハムなんかもそうでしょ。自分の息子を火の中に投げ入れろとまで言われた。旧約聖書を読めば分かりますが、ほんとユダヤの神というのは人間を試すのが好きなんです。そうやって僕もいっぱい試された。この最後に現れた神も、もうボロボロになっている僕をさらに試そうとしてきた。そこで、なぜだかよく分からないんだけど、僕は————ほんとの神はこんなひどいことはしない————と思ったわけ。人間をこんなに痛めつけるわけがないじゃないかって。そこで、まぁ、及び腰ではあったんだけど「おまえは神じゃない」って後ずさりしながら叫んだんです(笑)。怖いんだよほんとに。そうすると、さっきの雀がパタパタパタと飛び去って、あたりがシーンと静まり返りました。そして、少し間をおいて、今度は一転、地の底の方から「ワハハハハハ、今ごろ気がついたか」と、まるで魔王のような声か響いてきて、「気がついたからには生かしてはおけん。死ね。」と一言、言われました。その瞬間、僕はそばの池の方に頭から引きずり込まれていきます。そして、ドボン。

この手のひらを返すような豹変はほんと恐ろしかった。もうほとんどヤクザだよね。人を恐怖で支配しようとするこのニオイ――自分以外の神を信じると滅ぶぞ、自分に逆らうと不幸になるぞ、というのが一神教というものが持った性格ですよね。非常に不敬な言い方になってしまうかもしれないけど、ヨブ記に登場する神にも、僕はどうしてもそういうニオイを感じてしまうんですね。

神の奴隷

つまり、ユダヤの神は人間に隷属を要求するということなの。私が世界を与えてやったのだから、絶対的な信仰を返礼として寄越せ、というように。だからヨブもまた奴隷的に神に関わっている。そこには自由意志がない。こうした一神教的精神というのが様々に姿形を変えて実は僕ら現代人の中にも流れ込んでいる。民族主義や国家主義はいうまでもなく、科学主義、民主主義にでさえ流れ込んでいるように思えます。要は、近現代自体もまたこのユダヤ=キリスト教的な一神教の流れの延長線上に存在しているってことなんだけどね。そして、現代人たちを支えている自我意識の核――コギトというやつですが、この精神の中にも、このユダヤの一神的な精神が流れ込んでいるように感じてならないわけだよね。だから、ここまで文明を作り出してきた人間の歴史的な意識の流れ全体のことを「ユダヤ的なるもの」と呼んでいると思ってほしい。だから、人間が人間として生きている限り、こうした自我の根源的な力が必ず意識の奥に巣くっているように感じます。つまり、あのとき神と名乗った存在は僕自身の自我の核にほかならかった。そう感じるんだよね。そして、こう言っちゃなんだけど、あれと同じ神が当然、皆さんひとりひとりの中にも宿っている。宿っているよね?宿ってない?(笑)

さて、話を戻そうね。ヨブ記の中で、最後に神がヨブに対していろいろと説教するんだけど、そのときに次のようなフレーズが登場してきます。

ヨブ記38章31節

図4-1  ヨブ記38章31節

これは神が宇宙を作ったときの話です。汝はプレアデスの鎖を結ぶことができるのか、汝はオリオンの綱を解くことができるのか————どうしてプレアデスが鎖で、オリオンは綱なのか、その意味は定かじゃないんだけども、ここには「結び」のイメージがありますね。こうした結びを結合させたり、解いたりしながら、黄道12宮とともに神は宇宙を生成し続けている。なぜか、唐突にこの一カ所だけにオリオンとプレアデスが出てきます。この部分は当然、古代バビロニアの占星学的知識などの影響を受けて書かれていると思うんだけど、いずれにしろ、星座の世界と天地創造が深い繋がりを持っているということを暗示しています。

2. オリオン・シリウス・プレアデスの三位一体

日本神話でも、このオリオンとプレアデスは男女神のような関係として語られることがありますが、OCOTが伝えてきた情報と合わせて見えてきたのが次のような構図でした。

オリオン・シリウス・プレアデスの三位一体

図4-2  オリオン・シリウス・プレアデスの三位一体

これは分かりやすくするために、わざとキリスト教の概念で描いています。父と子と聖霊の三位一体というやつです。実はこの三位一体の関係が、オリオンとプレアデスとシリウスの関係にとても似ています。もっとも、この父と子と聖霊は原始キリスト教会がミトラ教の三位一体論(ズルワン、ソフィア、ミトラ)から女神ソフィアを隠蔽するために作り上げたものなので、正確には父=オリオン、母=プレアデス、子(聖霊)=シリウスとした方がいいですね。ヌーソロジーでも、ほんとうのところは父=オリオン、母=プレアデス、子=シリウスのイメージで考えています。ただ、今日は「父・聖霊・子」の方がメジャーなので、その関係で話を進めて行きますね。

この「父・聖霊・子」という三位一体の構造について少し説明しておくと、ユダヤ的精神というのは父と子の契約を絶対としますから、この図でいえば、オリオンとプレアデスを結ぶところに生まれていると考えて下さい。これはさっきのケイブユニバースと同じような関係です。NOOSとNOSがぶつかり合う時空のところで自我が出来ているという話をしましたよね。これはユダヤ=キリスト教的にいうなら、父なる神と子なる人間が契約を交わしている領域に当たります。契約とは言うものの、そこでは子たるプレアデスが父であるオリオンに抑圧を受けている、と言ってもよいような状況です。そのために、プレアデスは聖霊が活動しているシリウス領域が全く見えなくなっている。物理学でも「最小作用の原理」というのがあって、力が最もエコノミックになったところで作用が起こるという原理がありますが、存在世界もそういった意味では、オリオンとプレアデスを最短距離の方でガッチリと結合させているという言い方ができるでしょう。プレアデスとオリオンがシリウスを媒介して結ばれる側の最長距離結合の方は全くエコノミックではない。人間がこちらに意識を向けるのはえらいしんどい(笑)。

さっきのケイブユニバースで言えば、このシリウスの領域が世界内部空間に当たります。人間はシリウスを完全に忘却して、オリオンとプレアデスの間で頑にユダヤの一神的な契約を守り続けているということになります。

もちろん、ここで一口にユダヤの精神と言っても決して一枚岩ではありませんよ。父の抑圧が強ければ強いほど、それに対する反動も起こってくるわけですから、こうした支配的な神に対して当然、ユダヤ的思考の内部においてもレジスタンスは何度も起こってきています。イエスの思想もその一つだったでしょうし、カバラもそうだと思います。カバラは言ってみればユダヤ教の密教のようなもので、その教えはタルムードなんかとは全く違います。戒律や律法といったユダヤ社会の掟よりも、神と個との直接的な繋がりについて内的に思考するのです。グノーシス的なんですね。特に16世紀に現れたラビ、イサク・ルーリアが行なったカバラの大胆な修正理論は今話したオリオン・シリウス・プレアデス間における力の流動関係を神自身の前進、進化のイメージを持って表し、それまでの中世カバラの世界大きく変革します。神は一者として神の座であるケテルにでんと構えるのではなく、動く存在になるのです。これは「神の撤退」と言われるものですが、カバラにおいてはほんとうに革命的な思考です。

神の撤退

このルーリアカバラについてはいずれこのレクチャーシリーズでも詳しく話していくことになると思いますが、ごく簡単に紹介しておくと、ルーリアカバラにおいては、セフィロト、いわゆる「生命の樹」というのは中央部分がものの見事に破壊されています。「器の破壊」という概念なんですが、これはルーリア以前のカバラにはなかった考え方です。ちょっと図をお見せしましょう(下図)。分かりますよね。ちょうど中央部に当たるイェッツェラー界というのが木っ端みじんに吹き飛ばされているんです。なぜ、こんな事件が起きたかと言うと、ルーリアに拠れば、「生命の樹」の最上位の領域にあるコクマー、ビナー、ケテルと呼ばれている領域にいる大霊たちの放つ光があまりに強すぎて目映かったと言うんですね。そのために中間のセフィロトが砕け散ったと。意味が分かりませんよね(笑)。

ルーリアカバラの生命の樹

図4-3  ルーリアカバラの生命の樹

ヌーソロジーの観点から見ると、ここでルーリアが何を見ていたかが手に取るように分かります。それは存在の父と呼ばれるコクマーと存在の母と呼ばれるビナーとを統合したケテルが、生命の樹全体を物質として臨在させ、そこに自らの種子としての人間を生み出したいがために故意に破壊したということです。さっき言った、オリオンとプレアデスの結合。神と人間の契約の場所です。それによって中間領域としてのシリウスが見えなくさせられたと言っていいと思いますよ。

オリオンという領域はカバラで言えばケテルそのものの世界です。そして、プレアデスはマルクトに対応していると言っていいでしょう。要は「生命の樹」の一番上と一番下は男神的なものと女神的なものの性愛によって繋がっているわけですね。実際、カバラでもマルクトは「神の花嫁」と呼ばれていて、マルクトを通して神は世界に臨在すると言われています。でも、これは真実の愛とはとても呼べない。男の女に対する性愛が真実の愛ではないことと同じです。言ってみれば男神による女神の抑圧のようなものなんですね。実際、この繋がりがあまりに強くなりすぎると、マルクトは生命の樹を転倒させた世界を作り出し、そこにクリフォト(殻)と呼ばれる世界を作り出してしまいます。そこに生まれるのがカバラにおいての「悪」と言っていいと思います。これは一言で言えば、物質を神とするような世界のことです。現在の人間の科学的唯物論の世界ですね。ルーリアカバラではこの悪との分離をはかるために、神を世界から撤退させるのです。そこから、神はこの破壊された容器群の修復へと取りかかる。このルーリアカバラの文脈から言えば、ヌーソロジーはこの神の撤退に関わる作業を行なっていると言えます。

このへんの構図は実は現代思想でも徐々に見え始めています。たとえば、ラカン派の精神分析の理論ではこの破壊されたシリウスは「現実界」と呼ばれます。オリオンへの方向性は象徴界です。「象徴界」というのは言語で組織化された世界、つまり人間社会だと思って下さい。プレアデスが持った方向性は「想像界」に対応させていいでしょう。こちらは、知覚を中心として構成されている主観的な世界のことです。

ジャック・ラカン(1901-1981)
フランスの哲学者。精神科医、精神分析家、フロイトの精神分析学を構造主義的に発展させたパリ・フロイト派のリーダー役を担った。(ウィキペディアより抜粋して引用)

人間の意識は想像界的な主観世界と、象徴界的な客観世界の間でいつも揺れ動きながら活動しているわけですが、これら両者の間にラカンが「不可能なるもの」として横たわっているのが「現実界」と呼ぶものです。面白いですよね。「現実界」なのに、人間の意識はそこにダイレクト触れることができない。この現実界とは何かというと、フロイトがタナトス、死の欲動が持っているとした方向、もの自体などとも解釈されていますが、ヌーソロジー的に言えば、そこが生成、つまり創造が行なわれている場所ということになります。人間の意識はこの創造空間に入ることを禁じられていて、その周囲をグルグルと反復するのを余儀なくされていると言ってもいいでしょう。現実界とは、いうなれば想像界と象徴界の間の亀裂のようなものであり、知覚世界と言語世界の間を遮断しているところです。この中間領域が見つからないというのが宗教においても、哲学においても、たぶん科学においても共通の難問なんですね。この現実界は宗教で言えば涅槃と言えるでしょうし、哲学でいうなら能産的自然が存在する場所と言えると思います。

要はシリウスが人間の意識から消えてしまっていること、シリウスの不在なんです。科学においてシリウスが見出せないこととは、物質の本質である素粒子の意味がわからないということに対応していると思って下さい。この失われた現実界への侵入を、哲学を通して試みようとしているのが、僕に言わせればドゥルーズなんかの哲学です。ですから、ドゥルーズ哲学は文字通り、生成の哲学、創造の哲学とも呼ばれています。

それもこれも、人間の意識がオリオンとプレアデスの間に強力な結びつきを持っているからです。それで、ヌーソロジーは「もう、この契約は終わった。オレはシリウスに向かう!」と、父と子の契約解除を宣言しているわけです。今までとは全く逆方向の空間へと意識の向きを変えるということ。つまり、反転ですね。

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