僕はどうもエコロジーというのが苦手だ。エコロジー思想の根底には、「人間は全体の中の一部であり、その意味では特別な存在ではない」という平等主義的な人間観がある。「すべての生き物はおしなべてすべて平等であり、全ての生き物が等しく生命の尊厳を持ち、それぞれに生きる権利を持っている。これらの権利を人間が一方的に剥奪し、自分たちの快楽のために自然を陵辱することは許されない。」こうしたディープエコロジストたちの主張は確かに至極まっとうな意見に聞こえるのだが、果たしてこれはほんとうだろうか?

1999年、『もののけ姫』というアニメ映画が大ヒットした。この映画の中で動物たちは次々とタタリ神となって動物神としての高貴な心を捨て、自分たちを迫害した人間たちに復讐心を燃やす。もののけの姫であるサンはありったけの憎悪を込めて「人間は許せない」という台詞を吐く。

地球規模での環境の危機が叫ばれている今日、こうしたメッセージは確かに分かりやすい。しかし、野生動物たちを擬人化して人間が諸悪の根源かのように思わせる表現手法は、逆に動物たちまでをも人間化して道徳的な存在に変えようとする極めて人間主義的な態度のように思えないこともない。自然は無為であり無垢である。そこで展開している生死のドラマには善も悪もない。こうした神聖な生死の有り様に、僕らは「ああ、何てかわいそう」という同情の感情を上塗りし、その感受性を免罪符代わりにしてはいないか。事実は『もののけ姫』もまた自己満足的なカタルシスとして消費されていく商品にすぎないのだ。

おそらく自然破壊によって死滅させられていく動物たちには、サンが持った人間に対する憎しみなど微塵も理解することはできないだろう。彼らは自らが滅ぼされてゆくことに何の感情も持つことなく、また、その理由さえも何も知ることもなく姿を消して行くだけなのだ。それだからこそ、僕ら人間は全自然に対して計り知れない責任を負っていると言うべきではないのか。エコロジーがいくら生命中心主義を唱えようと、それは人間中心主義の枠を出ていない。結局のところ、すべてが自分かわいさゆえの自然保護なのだ。

さて、人間はほんとうに地球の中のガン細胞なのだろうか? 神さまの予定調和に逆らって生まれてきた狂った欲望機械なのだろうか。僕にはどうもそうは思えない。むしろ、自然や生命という美名のもとに「人間」という存在があまりに過小評価されていること。このことの方がよっぽど問題ではないのか。数千万という種が存在する地球上で、何故に人間だけが言語を持ち、道具を使用し、文明を作り出す能力を持って、今ここにこうして存在させられているのか――現在の常識の中では、人間の知性が持つこのような傑出した能力さえも、環境を生き抜くための生物進化の結果ぐらいにしか考えられていない。ダーウィン的な弱肉強食のパラダイムと今的な共生のパラダイムという二つの相矛盾する進化観のバランスを取るために科学者たちはシステム生命論でお茶を濁している。

自然世界全体が共生的に進化してきたのなら人間のような全体を破壊するような種が出てくる理由は分からない。また弱肉強食説をとっても人間のような脆弱な種がなぜ生き残ったのかは説明できない。いずれにしろ人間という存在は進化論などで説明できる類いのものではないのだ。

ここで「霊的自然」という言葉を思い出してみよう。この言葉は一体何を意味しているのだろうか。古代の人たちは世界中どの民族であれ、自然の中に精霊や神を見ていた。シャーマンたちが「動物や植物たちの中にスピリットが宿る」というとき、それは決して動植物にも人間と同じような意識が宿っている、ということを意味しているわけではない。人間の魂と動植物たちの魂は僕らが未だあずかり知らぬレベルで深く一体化している。

[Star People vol.20]
text by Kohsen Handa