■喪服のイシス

R・シュタイナーによれば、血は自我の象徴とされる。自我を持つ者が人間ならば、血はまた人間の象徴でもあるだろう。古代の人間には現代の人間が持つような自我は存在していなかった。古代の人間と現代の人間では無意識の構造が全く違っていたのだ。いや、もっと言えば、古代には今風の「人間」という概念自体が存在していなかったとも言える。

人間性(humanity)とはユマニテ(humanite=人文の意)から派生してきた近代ヨーロッパの発明品にすぎない。その意味では、古代どころか中世においても果たして「人間」が存在していたかどうかは疑わしい。
そもそも「古代の人間」という言い回し自体が、僕ら「人間」の独りよがりともいえる世界観から出てきているものにすぎない。ユマニテとは、実のところ、ミクロコズム=マクロコズムという宇宙の調和的律動が見えなくなった存在の孤児の代名詞なのではないだろうか。近代ロゴスの力によって宇宙全体の律動から一時的に切り離された葦舟の漂流者。こうした盲目的存在を人間と見るならば、「人間」という生き物の歴史はたかだか数百年にすぎないものになる。

真の実在から疎外された人間に秘められた裏事情は、キリスト教ならば原罪として語られているし、神秘主義であればアダムの転落の事件として記されてもいる。といって、人間の魂が堕落の一途たどっているかと言えばそうではないだろう。無意識の変動は錬金術的過程にも語り継がれているように、つねに、黒の作業から白の作業、つまり腐敗のプロセスを通して浄化へと至るのだ。

古代エジプトの逸話にもあるように、イシスは黒い喪服を身に纏い、ナイル川の岸辺を一人さまよい歩き、亡き夫オシリスの遺骸を拾い集めている。そこで収拾される肉片の数は「14」。それらすべての回収を終えたときに、イシスは一時的な復活を果たしたオシリスと交わり、新たなる王ホルスを身籠る。「14」番目の肉片とはオシリスの性器であった。それならば、受胎告知は「15」番目の肉としてやってくる。

■ライトワークとは月を目覚めさせること

現代の人間の最も分かりやすい特徴の一つは、肉体を自分の自我中心として強く認識していることだ。肉体の外イコールわたしの外、肉体の中イコールわたしの中、という物質的な認識によって、かたくなに象られた自我観。「人間」は、こうした存在感覚の中で自己と非-自己の間にある境界を線引きしている。

一方、古代者たちは肉体にマクロコズムの活動のすべてが集約されていると考えていた。一即多、多即一という光の身体が持つ融一性。この驚異的なモナドロジーを知性としてごく自然に所持していた古代者たちと、肉体を「わたし」という個我の住処として認識している現代人との間には、無意識自体の在り方に隔絶した差異があることは容易く推測できる。

ライトワークとは、いうまでもなく、この光の身体を持つための作業の呼称である。さて、光の身体とは何を指して言っているのか。それは深い瞑想の中で、チャクラを満たす光球の中に自らを同一化させていくことなどでは決してないだろう。三次元意識に閉ざされた肉体の内部に響いているのは月に住まう妖女セイレーンたちの歌声のみである。光になるということは、月が支配するエーテル領域に対して真に目を見開くということだ。それは哲学的に言えば、純粋な内在であり、ひとつの生の主体である。この主体は今はまだ僕らに意識化されてはいないが、確実に僕らの無意識として働き、内なる魂の襞を形成する母胎となっている。この襞に触れるためには、肉体の中に住まうと感じ取られている自我を、肉体の檻の中から眼前に広がる現象世界そのものに解放することが必要である。古代者の身体は肉体の内部ではなく外部にある。いや、内部と外部の関係性の狭間の中にいる。その合間にある空間の捻れを見いだすこと。その発見が見失われたエーテル体の再生につながるのだ。月を超えて水星へと出向くこと。メルクリウスの知識はそこに生まれる。

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