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魂(プシュケー)とは忘却された創造の記憶である。この記憶の痕跡の上に根を下ろすもの、それが自我である。もし、時の終わりがやってきて、自我が消滅することにでもなれば、そのときは、魂(プシュケー)もまた意識の座から撤退するだろう。それは忘却が忘却されるときであり、理念(イデア)が魂(プシュケー)にとって変わるときでもある。

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■コンステラツィオーン

海図も羅針盤もない時代。地中海の船乗りたちにとって必要不可欠だったものは星を見る能力であった。星が描く神聖なる幾何学。この幾何を正確に読み取ることのできる者たちだけが、船に正しい航路を与え、最終的な目的地へとたどり着かせることができる。もし星座の知識を失ってしまえば、航海者たちは大海原の只中で、間違いなく漂流者と成り果ててしまうことだろう。

魂の航海についても同じことが言える―アナタハ、イマ、ドコニイルノカ。ソレヲ、シッテイマスカ―。星は魂の道標であり、星なき航海は魂を漂流させる。ここでいう星の知識とは魂と魂の「つながり」のことである。アイツとオレのあいだ、彼と彼女のあいだ、彼らと彼らのあいだ。そこには無数の眼差しが生息している。それら幾多の見えない眼差しの交差が作り出してくる交点。それが星なのだ。こうして誕生してきた星々は互いに相手を照らし合い、その身振りと語らいの中で無数の幾何学模様を描き出す。レーダーの原理と同じく、自分の魂の居場所は反対物の反射によってこそ確認されるものなのだ。ベンヤミンはこうした星たちの生態のことを「コンステラツィオーン=星座」と呼んだ。星座とはベンヤミン風に言えば友愛が描く力線である。

■神の息としての魂

人間の魂は肉体という檻に閉じ込められており、いずれ時が来たら、人間はこの檻から抜け出し、神の居住する荘厳なるイデアの世界へと向かう―これが霊的形而上学の伝統として受け継がれて来た人間の魂の進化の考え方だ。なるほど、確かに人間は自分自身を肉体と同一視し、肉体はそこからしか世界を捉えることができない。肉体はその意味で世界の中心であり、魂はこの中心に降ろされた意識の錨のようなものである。体外離脱という現象は、こうした錨が肉体の外へと外されてしまったかのような感覚に襲われる体験のことを指している―寝ているわたしを天井から見ているもう一人のわたし。空の上からわたしの家の屋根を見ているわたし。肉体に縛られることなく自由に中空を浮遊するわたし―。こうしたプライベートな経験が魂の離脱として解釈されるのはごくごく自然なことのようにも思える。しかし、中心位置が肉体と乖離した後もなお、その場所に相も変わらず「わたし」を感じとっているのであれば、中心位置は中心位置のままであることに何の変わりもない。肉体を離脱した魂にまで、どうして中心化としての「わたし」がこうもつきまとわなくてはいけないのか。魂の離脱とは肉体からというよりも、むしろ、わたしから「わたし」が離脱することをいうのではなかったのか。

体外離脱が起きたとき、そこに感じ取られている相も変わらないこの「わたし」とは一体何なのだろう。精神分析学的知見に従えば、「わたし=自我像」とは他者の眼差しに支えられて出現してくるものだ。もともと主体(ほんとうのわたし)は肉体などには居住してはいなかった。幼児の頃のかすかな記憶を辿ってみよう。若かりし頃の母の面影、薄汚れた涎掛け、乳白色に濁った哺乳びん、柔らかい臭いのするおんぶ紐etc………、これら大幅にぼやけた記憶の断片は、わたしの記憶というよりは、ただそこにあるだけの純粋な光景だったようにも思える。そこでは、未だ見るものと見られるものとの分離は存在せず、わたしはわたしがわたしであるということなどに微塵の注意も払ってはいなかった。未だ言葉のない光だけの世界であり、すべてが混沌の名のもとに一つになっていた。やがて、この純粋な光景は、そこに紛れ込んでいる他者たちの眼差しと呼びかけの声によって、その一体性を分化させ、一つ一つの存在者の輪郭を浮かび上がらせてきたのだ。その意味で言えば、ほかならぬこのわたしもまた他者によって名付けられ、世界に呼び出されてきた者の一つに過ぎない。そう、わたしがあってあなたがいるのではないのだ。あなたがいて、そしてわたしがいる。とすれば、土くれ塊としての肉体に注ぎ込まれた神の息(プシュケー)とは、他者の眼差しや語らいのことをいうのではないのか―。

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