第1回東京ヌースレクチャー2013 vol.1 「創造空間の時代へ」

4コマ目前半 ユダヤ的なるものの彼方に

─── 目次 ───

  1. 旧約聖書の中のプレアデスとオリオン
  2. オリオン・シリウス・プレアデスの三位一体

1. 旧約聖書の中のプレアデスとオリオン

さぁ、では、最後の四コマ目の話に入りましょう。

最後は「ユダヤ的なるものの彼方に」というタイトルにしました。サブタイトルに「科学主義と宗教主義を超えて」とあります。ここにある「ユダヤ的なるもの」というのは、先ほど少しお話した「ユダヤ民族とは現在の人間の核質です」というOCOT情報を意識して入れ込んだものです。「ユダヤ的なるもの」というのは、ズバリ、現在の人間の主観性の核のようなものと考えて下さい。自我のことです。つまり、ユダヤ民族の歴史の中に色濃く反映されている一神教の精神の働きが、歴史における人間の自我意識の成長を先導してきたのではないかと考えているということです。現代の都市に生きる人々のほとんどはユダヤ人たちが考案した銀行・証券・保険などといった金融システムの中で生きていますよね。「全人類がユダヤ化されている」なんて聞くと、陰謀論に興味を持たれている人たちは、すぐにフリーメイソンやイルミナティ云々の話で盛り上がるんでしょうが、ここで言っている「ユダヤ的なるもの」というのはそのような外に向いた社会的、政治的な話ではなくて、内に向いた人間の無意識についての話です。決して国家主義とか民族主義に関する話をしているわけじゃない。国家主義や民族主義といったイデオロギーもまた自我意識が作り出した生産物にすぎないということ。ヌーソロジーが「ユダヤ的なるもの」と言うときには、必ずこうした自己同一性に囚われた人間の意識状態のことを指しているのだと思って下さい。

この「ユダヤ的なるもの」を超えて、僕らは新しい人間のビジョンを作り出していかないといけない。つまり、自我意識を乗り越えたところの新しい主体のイマージュ、まぁ、こうした主体はもう人間とは呼ばず、OCOT言うところの「変換人」ということになるのでしょうが、それを今の人間を支配しているユダヤ性を超えて作り出していく必要があります。

この新しい主体のイマージュを作っていくためにどうしても必要となるのが、人間が今あるようなかたちで人間たらしめられているのはなぜか、ということに対する問題意識です。当然、これは人間の無意識がやっていることでしょうから、この無意識の詳細な地図作成を行なって、まずはこうした人間固有の意識の成り立ちに対して自意識的になることが必要です。

OCOT情報をいろいろと解読していった結果、こうした自己意識成立の背後には「存在のトリニティ」とも言っていいような三位一体の構造があることが分かってきました。もう、皆さんにもおなじみですよね。それが、さきほどから紹介しているプレアデスとシリウスとオリオンの三幅対(トリアーデ)です。

プレアデス・シリウス・オリオン
6,500年×4=26,000年のナゾ

ヌーソロジーが頻繁に用いるこのプレアデス・シリウス・オリオンという名称は、巷のチャネリング情報と混同されやすいので、ここは注意が必要です。まず、これらは、延長宇宙にあると見做されている天体名を指して言っているわけじゃありません。今日の話の流れからも分かるとは思いますが、星々もまたさっき話したケイブユニバースの中で生成されている精神流動の射影としてあるというのがOCOT情報の趣旨です。要は、ミクロ世界にしろ、マクロ世界にしろ、およそ物質と呼べるものすべては精神の影として現れたものだということなんです。

大地の方向には大自然が広がっていて、そこにはミクロに始まって肉体レベルに至るまでの様々な物質が生まれています。一方、夜空を見上げると、月を始めとして太陽や諸惑星、さらにはその背後には無数の星々がやはり同じ物質的現象として存在している。こうした〈ミクロ-マクロ〉両極の世界も、高次元から見るならば、ある対称性を持って存在させられているというのがOCOT情報です。対称性というと難しく聞こえるかもしれないけど、要は、ミクロもマクロも互いに逆写しにされた精神の写像のようなものだということなんですね。僕らの内在性の奥でうごめいている高次の実体がミクロとマクロの方向にあたかも全く別個のもののようにして映し出されている。そういう宇宙観なんです。このへんの内容は世に数あるチャネリング情報の中でもかなりぶっ飛んでいるところじゃないですかね?誰も聞いたことのないものすごい話になっています。

たとえば、以前、OCOTに「細胞とは何か?」と聞いたとき、「細胞とは恒星のことです」と返してきました。ひっくり返りましたよ。一体、こいつは何を言ってるのかって(笑)。こういったOCOT独自の物言いは、空間を大小概念で思考している私たちは絶対に理解できません。時空から垂直に穿たれた別種の空間、さっきの言い方をするなら世界内部空間とでも言うのでしょうか、その空間が見えて初めて理解可能になる話です。ここで言う、プレアデス・シリウス・オリオンも、普通に考えるなら夜空を彩る天体たちの呼称です。オカルトスピ系の人たちならば、そこから宇宙人が円盤に乗ってやってくるのを想像することでしょう。だけど、これらの世界もまたOCOTにとっては内在性の奥底に住まう高次元の精神の射影として把握されているんですね。まぁ、この辺はたぶんものすごく高次の世界でしょうけど。そして、人間の意識世界自体が、これら3つの領域の力を土台にして脈動しているのだとOCOTは言います。

先ほど3コマ目の話で最後に紹介した、6,500年×4=26,000年という交替化の周期の運動というのも、このオリオン・プレアデス・シリウスが持った精神の力関係による変動だとしています。それについては後で具体的に説明しますが、これらオリオンとプレアデスとシリウスには、それぞれ男性的、女性的、両性具有的なイメージがあるんだよね。シリウスについてはエジプト神話やドゴン神話にもとても重要な星として登場してくるから、霊的なものとの結びつきはすぐに想像することはできるけど、オリオンとフレアデスを霊的なものとの関係で語っている神話というのは意外と少ないのね。たとえば、ギリシア神話ではオリオンはプレアデスを執拗に追っかけるストーカーみたいな存在になっているのでチト違うし(笑)。日本神話にはツキヨミとアマテラスがそれぞれオリオンとプレアデスの関係に当たるって話があるんだけど、ツキヨミについてはほとんど謎とされているので、それだけじゃ具体的なイメージがつかめない。唯一それらしきことが書いてあるのが旧約聖書かな。その記述は有名な『ヨブ記』というのに出てくる。日本人は旧約聖書なんてほとんど読まないので、この『ヨブ記』についてはほとんどの人が知らないよね。面白い話なので、一応あらましを紹介しておきますね。

ヨブというのはある男の名前です。ヨブは敬虔な信仰の持ち主で、生活もすごく恵まれた人だった。家畜を千匹以上飼っていて、美しい奥さんを持って、子供も十人ぐらいいて、何一つ不自由のない幸せな生活を送っている男なんです。あるとき、ヨブの神に対する篤い信仰心を腹立たしく思っていた悪魔が神に相談を持ちかけるんだね。「あそこにあなたのことを篤く信仰しているヨブという男がいます」。神は「感心な男だ」と答えます。そこで悪魔が言うんです。「でも、見ていて下さい。あの男、もし財産と子供を失ってしまったら、神の恩恵を信じなくなって、あなたのことを信仰しなくなると思いますよ。ひとつ試してみませんか?」って。すると、この神というのがひどくて、「ぜひ、やりなさい」って(笑)。

で、悪魔はヨブが飼っていた家畜を皆殺しにします。そして、住んでいた家も大風でなぎ倒して子供たちまで全員殺しちゃう。ヨブは悲しみのどん底に落とされます。でも、なぜか神への信仰は捨てることがない。こんなことになったのは自分のせいだと。もともと神が全てを与えてくれたんだから、全て失うのもまた神の思し召しだと。裸一貫で最初に戻ればいいだけの話じゃないかと妻に言うんです。エラい。すごい男です。「主は与え、主は奪う」という有名な言葉があるんだけど、これはこのときのヨブの心情を表したものです。そう言ってヨブは神を恨まない。逆に神に対する信仰をもっと強くする。で、悪魔がそれを見ていて「こいつやるなあ」と(笑)。そして、もっといじめてやればきっと神を呪うようになるはずだと思い、今度はヨブを病気にしてやろうと考えます。『ヨブ記』の中では皮膚病と書かれていますが、これはおそらくライ病のことです。ライ病で地獄の苦しみを味会わせてやろう、そうすればいくらヨブでも神に対する信仰を捨てるだろうと悪魔は考えます。そこで、また神に訊くんだよね。「試していいですか?」って。すると、神はまた「やりなさい」と。ホントひどくない?この神さま(笑)。

悪魔はさっそく実行に移します。ヨブはさらに苦しみます。のた打ち回ります。考えてもみて下さい。裕福で、いい家に住み、妻にも子供たちにも恵まれて、体も健康そのもので順風満帆だった人生から、一気にすべてを奪われて、おまけに体までがライ病に侵される。天国から一気に地獄に叩き込まれたようなものです。それで神さまに対する信仰がヨブは弱まったかというと、やはりそうはならない。ヨブはそれでも神を信じ続ける。

友人たちがやってきて、「おい、ヨブ。お前、こんなことになったのは、お前が絶対何か悪いことをしたからだぞ。お前が何か罪を犯したから神がこうやってお前に仕打ちしているんだ」と言います。でも、ヨブは頑として否定する。「私は疾しいことなど一つもしていない。私はずっと神を信仰し、ただ正しい行いだけをしてきた。だから、こうなったのは私の責任とは思わない。私は神に異議申し立てをする」と。これはヨブの神への反発というよりも、強い信仰心を持つがゆえの態度だと考えるといいと思います。そして、ヨブは神に訴えかけます。こうした神への直談判の結果、神はヨブの訴えを聞き入れ、最後はヨブの人並みならぬ信仰心を褒め称えて、家畜と家と子供を与えて、ヨブの暮らしを元通りに再現します。こうして、ヨブは幸せな余生を送りましたとさ、という話なんですが、この話、皆さん、どう思いますか? ユダヤ教徒にとっては、たぶんこの話は素晴らしい話なんでしょう。でもね、僕はこの話をどうしても好きになれない。実はこれは自分の経験から言っています。きょう最初に1985年に起こったチャネリングの話をしたよね。僕はそのクライマックスで、自称神と名乗る存在と出会ったん。でも最後は殺されそうになって発狂してしまい、そのまま精神病院に搬送された。そのときの記憶がこのヨブ記の話を拒絶するんだよね。この神は偽神だって。もちろん、僕がそのとき対面した自称神なるものがユダヤの神だったとは言わないよ。でも、とてもよく似た臭いがするんだよね。ちょっと話が横にそれちゃうかもしれないけど、大事な話だと思うので、少しだけ話しておきましょう。

チャネリングの相手は最初、オリオンのNOMIという存在でした。彼は僕を、それこそスウェデン・ボルグの「霊界物語」のように、いろいろな世界を案内してくれて、生命の誕生や、地球の進化、死後の世界等についていろいろと教えてくれたんですね。しかし、途中、無意識の中でうごめいている強大な大渦の中に巻き込まれ、そこで迷子になってしまうの。まぁ、今思えば、このときすでに完全に発狂していたんだけどね。そして、飲まず、食わず、眠らず、の状態で丸三日間、当時棲んでいた吉祥寺の街を、狂人となって徘徊して回る。そして、最後のクライマックス。場所は忘れもしない。真夜中の井の頭公園でした。電信柱にとまっていた一匹の雀が「もう、心配しなくていいです。まもなくオリオンの父が来られます」と優しく語りかけてきて、辺りが急に精妙な雰囲気になってきました。すると、上空の雲の間から神々しい声が聞こえてきて、この自称神と名乗る存在と対峙します。この存在は、それはそれは荘厳な雰囲気で、威厳に満ちた声で語りかけてきました。「コウセン、よく頑張った。ここまで来るのは大変だったろう」って。というのも、無意識の中で僕はいろいろと試されたんだよね。自分の幼少期に連れていかれ、そこで自分の深いシャドーを見せられたり、あるときは「おまえは鳥だから、高いビルから飛び降りてみろ」とか「犬のウンコを食べろ!」とか、これはちょっとレベル低すぎだけど(笑)。NOMIから始まったこの一連のチャネリングの流れは、とにかく次々に無理難題を押し付けてきては僕を試した。この「試す」というのがとてもユダヤ教っぽいんだね。アブラハムなんかもそうでしょ。自分の息子を火の中に投げ入れろと言われた。旧約聖書を読めば分かりますが、ほんとユダヤの神というのは人間を試すのが好きなんです。そうやって僕もいっぱい試された。この最後に現れた神も、もうボロボロになっている僕をさらに試そうとしてきた。そこで、今でもなぜだかよく分からないんだけど、僕は————ほんとの神はこんなひどいことはしない————と思ったわけ。人間をこんなに痛めつけるわけがないじゃないかって。そこで、まぁ、及び腰ではあったんだけど「おまえは神じゃない」って後ずさりしながら叫んだんです(笑)。そりゃあ怖かった、ほんとに。そうすると、さっきの雀がパタパタパタと飛び去って、あたりがシーンと静まり返りました。そして、少し間をおいて、今度は一転、地の底の方から「ワハハハハハ、今ごろ気がついたか」と、まるで魔王のような声か響いてきて、「気がついたからには生かしてはおけん。死ね。」と一言、言われました。その瞬間、僕はそばの池の方に頭から引きずり込まれていきます。そして、ドッボ〜ン。端から見たら、飛び込み自殺のように見えたことでしょう。水深は1メートルもなかったんですが(笑)。

この自称神と名乗るヤツの手のひらを返すような豹変はほんと恐ろしかった。もうほとんどヤクザだよ。人を恐怖で支配しようとするこのニオイ――自分以外の神を信じると滅ぶぞ、私に逆らうと不幸になるぞ、というのが一神教というものが持った性格だよね。非常に不敬な言い方になってしまうかもしれないけど、ヨブ紀に登場する神にも、僕はどうしてもそういうニオイを感じてしまうんだよね。

神の奴隷

つまり、ユダヤの神は人間に隷属を要求するということなの。私が世界を与えてやったのだから、絶対的な信仰を返礼として寄越せ、というように。だからヨブもまた奴隷的に神に関わっている。そこには自由意志がない。こうした一神教的精神というのが様々に姿形を変えて実は僕ら現代人の意識の中にも流れ込んでいる。民族主義や国家主義はいうまでもなく、科学主義、民主主義の中にまでも流れ込んでいるように思えます。要は、近現代自体もまたこのユダヤ=キリスト教的な一神教の流れの延長線上に存在しているってことなんだけどね。そして、現代人たちを支えている自我意識の核――哲学でいうところの「コギト」というやつですが、このコギトの精神の中にも、このユダヤの一神的な精神が流れ込んでいるように感じてならないわけだよね。だから、ここまで文明を作り出してきた人間の歴史的な意識の流れ全体のことを「ユダヤ的なるもの」と呼んでいると思ってほしい。だから、人間が人間として生きている限り、こうした自我の根源的な力が必ず意識の奥に巣くっているように感じます。つまり、あのとき神と名乗った存在は僕自身の自我の核にほかならかった。そう感じるわけです。そして、こう言っちゃなんだけど、あれと同じように人を支配しようとする神が当然、皆さんひとりひとりの中にも宿っている。宿っているよね?宿ってないですか?(笑)

さて、話を戻しましょう。ヨブ記の中で、最後に神がヨブに対していろいろと説教するんだけど、そのときに次のようなフレーズが登場してきます。

ヨブ記38章31節

図4-1  ヨブ記38章31節

これは神が宇宙を作ったときの話です。汝はプレアデスの鎖を結ぶことができるのか、汝はオリオンの綱を説くことができるのか————どうしてブレアデスが鎖で、オリオンは綱なのか、その意味は定かじゃないんだけども、ここには「結び」のイメージがありますね。こうした結びを結合させたり、解いたりしながら、黄道12宮とともに神は宇宙を生成し続けている。なぜか、唐突にこの一カ所だけにオリオンとプレアデスが出てきます。この部分は当然、古代バビロニアの占星学的知識などの影響を受けて書かれていると思うんだけど、いずれにしろ、聖書のこの一節は星座の世界と天地創造が深い繋がりを持っているということを暗示しています。

2. オリオン・シリウス・プレアデスの三位一体

日本神話でも、イザナギとイザナミの話のように、宇宙創造が男女神から始まったように語られることがありますが、このオリオンとプレアデスの関係をOCOTが伝えてきた情報から整理すると、次のような構図になります。

オリオン・シリウス・プレアデスの三位一体

図4-2  オリオン・シリウス・プレアデスの三位一体

この図では話を分かりやすくするために、わざとキリスト教の概念で示してます。「父と子と聖霊の三位一体」というやつです。実を言うと、キリスト教におけるこの三位一体の関係が、オリオンとプレアデスとシリウスの関係にとても似てる。もっとも、この父と子と聖霊の三位一体と言う概念は、原始キリスト教会がミトラ教の三位一体論(ズルワン、ソフィア、ミトラ)から女神ソフィアを隠蔽するために作り上げたもので、正確には父=オリオン、母=プレアデス、子(聖霊)=シリウスとした方がいい。キリスト教では父の原理が絶対とされるので、母性が消されているんだね。「本当は人間という存在こそが母性である」ということが伏せられているわけです。ヌーソロジーでも、ほんとうのところは父=オリオン、母=プレアデス、子=シリウスのイメージで考える。ただ、「父・聖霊・子」の方がメジャーなので、今日は、そちらの表現で話を進めて行きましょう。

この「父・聖霊・子」という三位一体の構造について少し説明しておくと、ユダヤ的精神は父と子の契約を絶対としますから、この図でいえば、この契約はオリオンとプレアデスを結ぶところに生まれていると考えて下さい。これはさっき紹介したケイブユニバースの構図と同じような関係になるのが分かります。先ほど、NOOSとNOSがぶつかり合う時空のところで自我が生まれているという話をしましたよね。これはユダヤ=キリスト教的にいうなら、父なる神と子なる人間が契約を交わし、神が人間に仮の主体性を与えている状態に当たります。まぁ、契約とは言うものの、この契約は一方的で、そこでは子たるプレアデスが父であるオリオンに抑圧を受けている、と言ってもいいような状況です。そのために、プレアデス側では聖霊たちが活動しているシリウス領域が全く見えなくさせられています。物理学でも「最小作用の原理」というのがあって、力が最もエコノミックになったところで作用が起こるという原理がありますが、存在の円環においても、そういった意味では、オリオンとプレアデスを最短距離でガッチリと結合させた領域の方が優位に働くという原理があるわけです。プレアデスとオリオンがシリウスを媒介して結ばれる側の結合力の方は最大距離にあたるのでちっともエコノミックではないということです。実際、人間がシリウスの方に意識を向けるのはえらいしんどいし、誰も向けていない。そういう状況がこの三位一体図には表されていると思って下さい(笑)。

さっきのケイブユニバースで言えば、このプレアデスからオリオンに至るシリウスの領域が世界内部空間に当たります。人間はシリウス領域を完全に忘却していて、オリオンとプレアデス間で結ばれた一神教的な契約を頑なに守り続けているということになります。

もちろん、ここで一口にユダヤ的精神と言っても、ユダヤの思考も決して一枚岩というわけではありませんよ。父の抑圧が強ければ強いほど、それに対する反動も起こってくるわけですから、こうした支配的な神に対して当然、ユダヤ的思考の内部においてもレジスタンスは何度も起こってきています。イエスの思想もその一つでしょうし、ユダヤ教の神秘主義とされるカバラもそうだと思います。カバラは言って見ればユダヤ教における密教のようなもので、その教えはタルムードなんかとは全く違います。戒律や律法といったユダヤ社会の外的な掟よりも、神と個との直接的な繋がりについて内的に追及していく思考や修行の体系なのです。つまり、極めてグノーシス的なんですね。特に16世紀に現れたラビ、イサク・ルーリアが行なったカバラの大胆な修正理論は今話したオリオン・シリウス・ブレアデス間における力の流動関係を神自身の前進と進化のイメージを持って表現し、それまでのトップダウン方式の中世カバラに大きな変革を与えます。神は一者として神の座であるケテルにでんと構える存在ではなく、動く存在になるのです。これはルーリアカバラにおいては「神の撤退」と呼ばれる出来事に当たりますが、その意味において、このルーリアカバラの登場は、ユダヤ思想史においてはほんとうに革命的な出来事だったと言えます。

神の撤退

このルーリアカバラについては、いずれこのレクチャーシリーズでも詳しく話していくことになると思いますが、ごく簡単に紹介しておくと、ルーリアカバラにおいては「生命の樹」というのは中央部分がものの見事に破壊されています。「器の破壊」という概念なんですが、これはルーリア以前のカバラにはなかった考え方です。ちょっと図をお見せしておきましょう(下図)。 分かりますよね。ちょうど中央部に当たるイェッツェラー界というのが木っ端みじんに吹き飛ばされているんです。なぜ、こんなことが起きたかと言うと、ルーリアに拠れば、「生命の樹」の最上位の領域にあるコクマー、ビナー、ケテルと呼ばれている領域にいる大霊たちの放つ光があまりに強すぎて目映かったと言うんですね。そのために中間のセフィロトの世界が砕け散ったと。意味が分からない(笑) 。

ルーリアカバラの生命の樹

図4-3  ルーリアカバラの生命の樹

でも、ヌーソロジーから見るなら、ここでルーリアが何を目撃していたかが手に取るように分かります。それは「存在の父」と呼ばれるコクマーと「存在の母」と呼ばれるビナーとを統合したケテルが、生命の樹全体を物質として臨在させ、そこに自らの種子としての人間を生み出すために、中間領域を故意に破壊したということです。神と人間の契約は、生命の樹では最上位のセフフィラーであるケテルと、最下位のセフィラーであるマルクトとの結合で示されると言ってよいでしょう。さっき言った、オリオンとプレアデスの結合を思い出してください。それによって中間領域としてのシリウスが見えなくさせられた。それを同じイメージだと言っていいと思いますよ。

要は「生命の樹」の一番上と一番下は男神的なものと女神的なものの性愛によって繋がっているわけですね。実際、カパラでもマルクトは「神の花嫁」と呼ばれていて、マルクトを通して神は世界に臨在するとも言われています。でも、これは真実の愛とはとても呼べない。男性の女性に対する愛がほとんどの場合、真実の愛ではないことと同じです(笑)。言ってみれば男神による女神の抑圧のようなものなんですね。実際、この繋がりがあまりに強くなりすぎると、マルクトは生命の樹を転倒させた世界だけに閉じこもり、そこにクリフォト(殻)と呼ばれる世界を作り出してしまいます。これはカバラにおける「悪」の定義です。クリフォとは一言で言うなら、物質を神とするような世界のことです。現在の人間の科学的唯物論の世界ですね。ルーリアカバラではこの悪との分離をはかるために、神を世界から撤退させます。そこから、神はこの破壊された容器群の修復へと取りかかる。このルーリアカバラの文脈から言えば、ヌーソロジーはこの神の撤退に関わる作業を行なっていると言えます。

このへんの構図は実は構造主義の思想なんかでも徐々に見え始めている部分です。たとえば、ラカン派の精神分析の理論はこの破壊されたシリウスのことを「現実界」と呼んでいます。オリオンへの方向性は象徴界です。「象徴界」というのは言語で組織化された世界、つまり概念の力によて構成された、人間が社会と呼んでいる場所そのもののことです。プレアデスが持った方向性は「想像界」に対応させていいでしょう。こちらは、知覚を中心として構成されている主観的な世界のことです。

ジャック・ラカン(1901-1981)
フランスの哲学者。精神科医、精神分析家、フロイトの精神分析学を構造主義的に発展させたパリ・フロイト派のリーダー役を担った。(ウィキペディアより抜粋して引用)

人間の意識は想像界的な主観世界と、象徴界的な客観世界の間でいつも揺れ動きながら活動しているわけだけど、これら両者の間に横たわっているのがラカンが「不可能なるもの」とも呼ぶ「現実界」です。面白いよね。「現実界」とは言うものの、人間の意識はその領域にダイレクトに触れることができない。この現実界と言うのは何かというと、フロイトがタナトス、死の欲動が働いているとした方向、「もの自体」などとも解釈されていますが、ヌーソロジー的に言えば、そこが生成、つまり創造が行なわれている場所ということになります。人間の意識はこの領域に入ることができず、その周囲をグルグルと反復するのを余儀なくされていると言ってもいい。現実界とは、いうなれば想像界と象徴界の間に生まれている亀裂のようなものであり、知覚世界と言語世界の間を遮断しているところです。この中間領域が見つからないということが宗教においても、哲学においても共通の問題になっているような気がします。この現実界は宗教で言えば涅槃と言えるでしょうし、哲学でいうなら能産的自然が存在する生成の場所と言えると思います。

要はシリウスが人間の意識から消えてしまっているということ。シリウスの不在なんです。科学においてシリウスが見出せないこととは、物質の本質である素粒子の意味がわからないということに対応していると思って下さい。この失われた現実界への侵入を、哲学を通して試みようとしているのが、僕に言わせればドゥルーズの哲学です。ですから、ドゥルーズ哲学は文字通り、生成の哲学、創造の哲学とも呼ばれているわけですが。

それもこれも、人間の意識がオリオンとブレアデスの間に強力な結びつきを持っているからです。それで、ヌーソロジーは「もう、この契約は終わった。オレはシリウスに向かう!」と、父と子の契約解除を宣言しているわけです。今までとは全く逆方向の空間へと意識の向きを変えるということ。つまり、ここでの所作が「反転」なんですね。

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